特に「効果音」について

ご質問にお答えいたします

水野重康


「田中さんからのご質問」
音創りもやはりお金がかかるのでしょうか。
それと日本映画はあまり音を強調しないように思いますが、私の勘違いでしょうか。
それとも日本映画の特色や伝統のようなものがあるのでしょうか。
例えば自然に近い音がいいとか。
むしろアメリカ映画が音を強調しすぎるのでしょうか。

映画は進化しながら色々な形へと変貌して来ました。
「サイレント」「パート・トーキー」「トーキー」「カラー」「ワイド」「3D」「マルチチャンネル・サラウンド」「CG合成」・・まだまだ変化して行く事と思います。

まず、最初は「サイレント」でありまして、映画自体は全く音の入っていないものです。
これを、映画上映館ではスクリーンの脇や下方に「楽団」を配置して「音」を作っていました(・・と言うよりも、映画に合わせて演奏していました)。
まだ「トーキー」の出現する以前の話です。

この時の音楽は一応「スコア」が有りまして、これを、「キノテーク」と申します。
「アメリカ」から映画を輸入すると、「フィルム」と一緒に「キノテーク」が数冊入って居りまして、これをもとにして、場面に応じた演奏をするのですが、その辺はいい加減でして、映画を「チョコチョコ」と見た後で「キノテーク」を元に演奏をしたり、その場の雰囲気等で「全く適当に」アレンジしてしまって演奏を終了してしまう事もありました。
今でも古本屋に行くとこの「キノテーク」を売っている事があります。

ここで問題になるのは「キノテーク」を演奏する為の「楽団」のその維持の件です。
今も昔も「人件費」で興行主は頭を痛めておりました。
そこに出現したのが「パート・トーキー」です。

「パート・トーキー」と言うのは「一部だけがトーキーになった映画」・・ではなくて、「音楽だけが付いていて、セリフの入っていない映画の事」・・です。
「パート・トーキー」はよく「パート・カラー」と間違えられますが、この二つは「言葉として似ている」だけでありまして「全くの別物」です。

「パート・トーキー」の出現は興行主を大いに喜ばせました。
「音楽」は「映画」に付いていますから「弁士」だけを雇えば良いのです。

そして今度は「トーキー」の出現です。

「弁士も雇わなくて良くなったぞ・・シメシメ・・」と興行主が思ったのもつかの間、今度は「音の再生」と言う問題が出てきました。
元来、「演劇場との共同体」の様な形をとっていた「日本の映画館」は「オール・トーキー」の出現により、独自・独特の設備を持つ「映画上映館」へと変化しなければならなくなってしまったのです。
「音楽再生」の為の「スピーカー」が出現した事により「オーデイオ的」な考え方が出て来るのは、それは、もう少し先の話です。

初期の劇場用「スピーカー」は、何と申しましても「シーメンス」「ウエスタン」ですがこれを書くと、とんでもない事になってしまうので、割愛いたします。
「トーキー」の最初は、巨大な「スピーカー」を画面の中央部(センター)に配置した「完全型モノラル再生」でした。
長くこの時代が続きました。

後に、民生用としても質の良い「スピーカー」が出始め「アルテック」等に代表される「民生用、ボイス・オブ・ザ・シアター」の考え方が浸透しだした頃に考えられたのが「マルチチャンネルによるマルチスピーカー・システム」です。

一難去ってまた一難、興行主は上映館の改造等に多額の出費が必要となって来ました。
「マルチチャンネル」による再生とは、「効果音の再生」と解釈して下さっても良いです。

映画の「音」には、「音楽」「効果音」の二つが有ります。
「田中さん」がおっしゃいます様に、「ライター」の音は実際にはあのような「音」ではありませんよネ。
かなり部分的に強調して作られた「音」なのですが、劇場の「スピーカー」を通して出て来た「音」を聞いた時は「これが、ライターの音だ・・」と思ってしまうのです。
「脳」が騙されてしまうのです。
「映像」の「残像理論」と同じ様なものです。
「・・ぽい」方が本物らしく見えたり聞こえたりするのです。
正しく、「片岡千恵蔵」の「国士無双」(剣の達人、伊勢守よりも、偽者の伊勢守の方が強く、何回やっても本物が偽者に勝てない・・と言う話)みたいな話なのです。
面白いですねえ。

「劇」の内容を盛り上げる為に、「偽者を本物っぽく感じさせる・・と言うよりも、本物以上に感じさせる・・」のが「効果音」でして、これは「映画」がズ〜と追いかけている「命題」の様なものです。
「田中さん」ご指摘の様に、映画の中に於いては外国では非常に重要視されています。「日本は・・」と申しますと、「馬のひずめの音」とか、「波の音」とかで、結構沢山あるのですが(王者はゴジラの声・・ですかね、主役だから・・)、縁の下の力持ち・・と言う境遇です。
「いかに偽者を本物らしく、或いはそれ以上に見せるか・・」これは「映画の根底」の様なものです。

映画「影武者」で「黒澤明」と「勝新太郎」が衝突したのはこの為です。
この事は、今回の「書き込み」とは一線を画すものでして、直接の関係が無いので「また後日・・」と言う事にしたいと思いますが、「日本映画」には「変なリアリズム信仰」とも言うべきものがありまして、これが「日本映画」そのものを「矮小化」し「世界の映画情勢」と離れたものにししている「元凶」です。

「北野武」の「変な映画」が「外国ではバカ受け」する最大の理由は「日本映画の変なリアリズム信仰」を無視しているからなのです。
「くそリアリズムはリアリズムでは無い・・」と言うことです。
「映画の効果音」は「リアリズム」とは全く逆のことをして、実は「リアリズム」を追求しているのです。
「日本映画」においては「効果音」は「冷遇」されている・・的なことを上記しましたが、しかし、これが「舞台」となりますと攻守は逆転します。

「歌舞伎」「文楽」等、日本の伝統的舞台芸能は、これ正しく「効果音の塊」です。
「歌舞伎」に於ける「音」の使い方は素晴らしく、今までどれほどの外国映画監督がそれを参考にして来たかは、枚挙に暇がありません。
しかし、「日本映画」になりますと「トホホ・・」の状態です。
「日本映画」にも「効果音」は沢山使われて居りますが、しかし、その割には、「効果音は映画制作上の重要なる要素である・・」と言う事がよく分っていないのではないか・・?とさえ思いたくなってしまいます
(分ってはいると思うのですが、映画上にはどうも生かされていない事が多々有るのです)。
外国には「禁断の惑星」が「作曲者なし」の「効果音だけ」(効果音製作者・・でタイトルに出ている)で作られています。
こう言う極端な例も外国には有ります。これは、外国の映画界が「効果音」の重要性をよく認識しているからです。
但し、近年は「やりすぎ」と思う様な使われ方をしている映画も多く見られる様になりました。これは、困ったことです。

それにしても、近年の「効果音」は「金」が掛かります。

「作曲」は「作曲者」に「スコア」を書かせて「効果的に当て嵌める」だけで済んでしまう事が多々有りますが、「マルチチャンネル」になった現代の「大資本投下型映画」では「効果音」は「CG合成」と並ぶ「金食い虫」の様な感じになっています。

この種類の映画を見るに付け、「一体何人の人間が絡んでいるのかなア・・」と思ってしまう位の本当に沢山の人が「効果音作成」に携わっています。中々大変な仕事ですよ。

そして、先にも書きましたが「一つの技術」が投下される毎に、映画館の興行主は、映画館の改造等のそれに対応する処置を講じねばなりませんので、これはこれで興行主にとっては「頭の痛い」話でありまして、興行主側にとっても何時までたっても「悩みの種」は消えない訳であります。



2003年12月

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(※本文中の敬称は略させていただきました)

著者紹介水野重康
49年、静岡県掛川市で100年以上続く医者の家に生まれる。
54年、『ゴジラ』を観て以後、映画にのめり込み、SFを中心として5000本近くの映画を観る事になる。
趣味を通じて、五味康祐氏、田山力哉氏、その他に師事する。
83年、生地に歯科医院を開業して現在に至る。

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