色彩映画・3

ご質問にお答えいたします

水野重康



前回の続きです。


「グレッグ・トーランド」は天分豊かなカメラマンでした。
今もカメラの撮影法として名高い「パン・フォーカス」はこの人があみ出したものです。
「近・中・遠景」のいずれに於いても焦点の合致する画像の事を「パン・フォーカス」と呼びます。

この人と、天才「オーソン・ウエルズ」が手を組み、さらに「オーソン・ウエルズ」の「モザイク理論」を加えて完成させたのが、「映画史上のベスト・1」と言われる「市民ケーン」です。

「モザイク理論」と言うのは、劇中・・「新聞王ケーンのエピソードを5人の語り手(?)が一切の時間経過を追う事無く、さまざまな角度からモザイク風にはめ込んでいき(これがミソ)、最後の一言で(有名な、バラのつぼみ)全部の話が完結する・・」と言うものです。
この「史上最高」とも言われる映画の醸し出す異常な迫力を支えている「カメラ技法」が先にも述べました「グレッグ・トーランド」の「パン・フォーカス理論」なのです。

この映画、この技法は正に「映画に於ける芸術」であり、「映画の一つの頂点」ともいえるものなのですが、「グレッグ・トーランド」をして「カラー映画にこの芸術が出来るかな・・?」とも言わせ、ある意味で「カラー映画」に対して「挑戦的な態度」を取らせていました。
「パン・フォーカス」を始めとする、幾多の理論が具現化出来ない「カラー映画」と言うものは、「映画」ではない、単なる「色」の付いた「映像」である・・。
ただし、「先のことは分らないけれども・・まだ、全然だめだ・・」とも言っていますので、付け加えておきましょう。

ですから、多くの「映画人」は「カラー映画」に対しては、二の足を踏んで躊躇している様な部分が有ったのです。
「巨匠」の名をもらっている人ほどその傾向は強かったようです。

しかし、どの「映画人」も「カラー映画」の未来は「明るい未来」である・・と思っていました。
それは、一重に「カラー映画」には「モノクロ映画」の数倍の「情報量」と「さらなる広大な世界の広がり」を感じ取っていたからなのです。
参考までに「グレッグ・トーランド」の作品を少し列記してみましょう。
「嵐が丘(旧)」「怒りの葡萄」「我等の生涯の最良の年」・・凄い作品ばかりですね。

では、なぜ、「パン・フォーカス理論」が「カラー映画」では無理なのか・・?と申しますと、「「カラー映画」でこの理論を使って作品を作り上げますと、映像の全部分に焦点が合っている・・と言うその為に、いわゆる「生理的に気持ちが悪くなってしまう・・」のです。
「カラー映画」は「モノクロ映画」よりも遥かに現実世界に近い情報量を持っているので、現実世界には存在しない「全焦点合致」の映像には「脳」が違和感を覚えてしまうのです。
何故、違和感を覚えるのか・・と申しますと、「なまじに、色が付いているから・・」なのです。

「モノクロ映画」では本当のところ、その「あまりの異質感」に「まあ、その様なものですね・・」と許容してしまう「脳」が「色」の存在を感じると、そのとたんに「ハッ!」と我に帰り「現実世界の色」と「カラー映画・映像世界の色」との「ズレ」を急に意識してしまうのです。
ですから、「脳」から見ると「異質感」として感じてしまうのです。
そして「全焦点映像」が加わったならば・・。
と言うことです。
ただし、この当時の「カラーフイルム」の状態がまだまだ未完成であった事も考慮にいれなくてはなりませんが・・。
「パンフォーカス理論」は「小空間での場面設定」「あまり動きの無い演出」「計算されたカメラワーク」等と重なったときに素晴らしく迫力に満ちた作品となります。
でも、あまり「商業ベース」に乗らない、いわゆる「芸術映画」なのでしょうね。

さて、「カラー映画」の出現時は「モノクロ映画」の全盛時であり、「カラー映画」自体がまだまだ「未完成」の状況にあった事は記しました。
しかし、「モノクロ映画」のその技術的完成時期は、それ自体、「カラー映画」の出現時よりも、もう少し先の事になるのです。
「モノクロ映画」の究極的完成には、皮肉な事に「カラー映画」の進化が深く関わって来る事になるのです。

ここで、私が「木下恵介」監督と「雑談」させていただいた時に出た言葉を少し紹介させていただきましょう。
日本初の「国産カラー映画」である「カルメン故郷へ帰る」を撮られた時の思いで話ですがこれが結構重要な話になって来るのです。

まず、「カルメン故郷へ帰る」は本当に苦労した・・と言う処から始まります。

「兎に角、フィルム自体がフジフイルム製作の国産発色フイルムであり、レンズもなにも今までと違う物を使った為にまるっきり感覚が違っていて、撮影・現像の繰り返しで、大変な長期ロケになってしまった」

「カラー映画と言うものはロケ期間が長く係るものである・・と言う事が分りましたよ」
「製作スピードを優先して、興行を優先するならば、あの時点では絶対にモノクロ作品に軍配が上がる・・と思ったね。」

「しかし、驚いたのはモノクロ映画と比較して、(空間の)密度が違う・・と言う事。従って、モノクロフイルムの感覚では絶対にカラー映画は撮れないね・・。(空間の)密度が違うのだから、カラー映画にはそれなりの撮り方が必要だ・・と思いました。」

「しかし、その逆、つまり、カラー映画の感覚でモノクロ映画を撮る事は、十分に可能だし、新しい表現方法が見つかった・・と言う感じがしました」

「でも、苦労した割には色が・・今ひとつ・・と言う処だったね。後でボロクソに言われて、今でもずっと言われていますよ」

「結局、色はコケおどしの原色みたいになっちゃったけど、仕方がないね」

・・以上「語句の正確さ」には「?」が大きく付き、かなり「私の記憶」の怪しい処もあるのですが、まあ、大体、この様な感じの「雑談」でございました。
尚、「カルメン故郷に帰る」の「色」の「妙なケバさ」は当時の「カラー映画」としては、あれが、限界だったわけです。

この後、この「データ」が元になりまして、日本の「カラー映画」の時代が開花して行くわけですが、ここで大事な事は「木下恵介」は「カラー映画の特性」を「モノクロ映画」に生かしたのです。
つまり、「カラー映画」の良さを取り入れた「モノクロ映画」を作り出して行ったのです。

以後、「日本の悲劇」「二十四の瞳」「野菊の如き君なりき」・・と、名作群を立て続けに発表して行き、何と何と「パート・カラー」の作品も作り、そして、ここで、「カラー映画」を再び撮りだしました。
「モノクロ映画」から「カラー映画」を撮り、もう一度「モノクロ映画」の世界へ「カラー映画」の理論を持ち込み、「モノクロ映画」にそれを生かして、そして再び「カラー映画」の世界へと帰って来た(?)のです。
これは、「応用は基礎の中に、基礎は応用の中に・・」と言うことです。

他の「巨匠」も「モノクロ映画」と「カラー映画」を「振り子」の様に使い分けながら、「モノクロ映画」を遥かに上回る「空間情報量の増大」と言うまだ未開の部分に対するべく、独自の「試行錯誤」の努力を続け、ゆっくりとではありますが、映画界全体が次第に「カラー映画の時代」へと移行していったのであります。
そして、それと歩調を合わせる様に「モノクロ映画」は世界的名作を続々と生み出し、ついに究極的完成をみるに至りました。

最後に、余談かもしれませんが、何故「ゴジラ」が「モノクロ作品」なのか・・と言うことです。
今まで色々と書いてきた理由で「カラー映画」には、なかなか踏み切れなかった・・と言う事もありますが、「キングコング」が「モノクロ映画」だった・・と言う事が以外と大きいのかも知れません。
「怪獣の迫力はモノクロだから出るのさ・・」と思っていたフシが有るのです。
言うなれば、「ゴジラ」は狭い空間で動き、そこで暴れ回る怪獣だから「空間の表現」をあまり考えなくても良い・・。
と言う訳です。
そして、「怪獣映画初のカラー映画」たる「空の大怪獣・ラドン」は「カラー映画」の特性を生かした「空間表現」と言う事に力を入れてあります。
「空」と言う「大空間」を「カラー映像」で表現したかったのです。
ですから、「空を飛ぶ怪獣」でありまして、伊達に「空の大怪獣」と言う副題が付いているのではありません。


これが「映画の裏の読み方」です。


2003年12月

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(※本文中の敬称は略させていただきました)

著者紹介水野重康
49年、静岡県掛川市で100年以上続く医者の家に生まれる。
54年、『ゴジラ』を観て以後、映画にのめり込み、SFを中心として5000本近くの映画を観る事になる。
趣味を通じて、五味康祐氏、田山力哉氏、その他に師事する。
83年、生地に歯科医院を開業して現在に至る。

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