スピルバーグ監督の『A.I.』でありますが、これは評論家は全員「ウ〜ン」というかもしれませんね。
 どうも、良くわからない映画なのです。
 ただし、「わからない」と言う部分は「わかりすぎるからわからない」のです。
 これは、昔、少年サンデーに連載されていた『海の王子』の中の「海神ポセイドンの謎」に出てくる言葉と同じです。
「ポセイドンを狙うには、ポセイドンを狙うな」
 つまりは、「わかりすぎるからわからない」。
 スピルバーグは先の読めないような急展開の映像を身上としている。
 そのスピルバーグが、このような、まったりとしたラストまで読み通せるような話の作り方、ひいては、何時間観ていても終わりがこないようなストーリーに全然変化のない、まどろっこしい映画を創るとは、とてもじゃないが信じられない。


『A.I.』は、三つの物語が絡み合っている。
 ひとつは、「これ見よがし」の『ピノキオ』。
 もうひとつは、『オズの魔法使い』。
 そして、『母を訪ねて三千里』。
 ラストは、完全にこれからいただいています。
「幸せになったような、ならなかったような」と言うところは、イタリア版の『旅路はるか』そのものです。
 でも、この手で観客を「オイオイ」泣かせようとは、古いですね。
 そして、この三つの物語をつなぐと、必然的にひとつの物語に帰結してしまいます。
 これはもはやストーリーがどうの、伏線がどうのと言えるものではありません。
 観ているハナから話の展開はおろか、ラストまでわかってしまうのです。
 スピルバーグ独特のたたみかけるような連続した映像は全くありません。
 妙に甘ったるい軽い映像です。
 いったいどうしてしまったのでしょうか?
 映画がどうのこうのと言うより、スピルバーグ自身が心配になってきました。
 そして、嫌になってしまう事のひとつとして、「キューブリック」に必要以上に気を使っていることがあげられます。
 キューブリックの良さを取り入れるのではなくて、「キューブリックならばこのように創る」という形は、もういやらしいくらいの「キューブリック調」です。
 なぜ、「キューブリック調」にしてしまったのでしょう?



 映画を知らない人は、キューブリックを過大評価し過ぎて、不世出の大監督のように言っていますが、「冗談じゃありません」。
 スピルバーグは、映画100年の歴史の中で後世に残る映画界の天才です。
 キューブリックなどは、足元にも及びません。
 私は、58年の『突撃』から、キューブリックは全部観ているのですが、最初の頃からして、そもそもがそれほどうまい監督だとは思えませんでした。
 俗に言うところの進歩映画の『スパルタカス』にしても、元々はアンソニー・マンの作品でしたが、途中降板してしまいまして、キューブリックに出番が回って来たという作品です。
 史劇が得意で、『スパルタカス』に出演した「サー・ローレンス・オリビエ」「チャールズ・ロートン」「ピーター・ユステイノフ」という猛者を手駒のように使える アンソニー・マンの方がどれほど良かったかと、私は今でも思っております。
 ただ、この映画は映画界の進歩派の連中が集まって創っていますので、映画史的には価値があります。
 しかし、『博士の異常な愛情』は、はっきり言って、掛け値なしに面白い。
 が、これとて、怪優「ピーター・セラーズ」が一人三役と言う大怪演を行い、これに、おんぶにだっこの状態だった。


 ついでに寄り道してピーター・セラーズでひとつ。
 『ピンクの豹(ピンクパンサー)』のクルーゾー警部役でおなじみのピーター・セラーズは、映画史に残る怪優です。
 特に、『ピンクの豹』第二部の『暗闇でドッキリ』は、無茶苦茶を通り越した傑作です。
「クルーゾーが10人いたらこの世は終わりだ」を、地で行くクルーゾー警部は誰がみても殺人犯と言う殺人狂の美女(エルケ・ソマー)に一目惚れして、
「犯人であるが、犯人でない?」と言うでたらめな論理を組み立てて、無実の証明をするためのドタバタ劇をくりひろげ、最後には事件関係者を皆殺しにしてしまい、
「あの事件はなかったことなのだ、わははは」と、言ってしまうと言うとんでもない役を、これまたとんでもない演技力で演じきってしまった。
 このような怪優の大怪演のみによって成立しているのが、『博士の異常な愛情』なのです。


 カメラマン出身のキューブリックは、確かにカメラワークは良いです。うまいです。
 しかし、それは大巨匠の域ではありません。
 もっとうまい監督は、たくさんいます。
 ともかく、最初の頃の作品は、俗に言うところのうるさ型の演技陣の助けられ、「アレックス・ノース」の音楽(スパルタカス)に観客が心を奪われている間に「何とかやりました」と言う単なる駆け出しの映像作家だったのです。
「映像作家」、そう、「キューブリック」は数少ない映像作家の一人なのです。
 従って、他の監督とは少し違う立場にいたのです。
 映像作家というのは、最少でも「演出」「脚本」「製作」をこなす事を言います。
 これに加えて、チャップリンの場合は、「主演」と「音楽」、 キューブリックの場合は、「特殊効果」までやるという総合的な立場にいる場合を言います。
 要するに、最初は一介の「映像作家」であって、後年、『2001年宇宙の旅』で、その名声を確率するまでは、それほど傑出した監督ではなかったのです。
 まず、作品数が少ないこと。
 大監督は、同時に多産監督でもあるのです。
 同じ映像作家でも「ジャン・コクトー」などとは、根本的に違っていたのです。



 ここまで書いてきて、「ハタ」と気づきました。
「これでは、 キューブリック論になってしまう」
『A.I.』について書くことが本筋なのに、「キューブリック論」では本末転倒。
「キューブリック論」は、また次の機会に書かせていただきます。
 話を 『A.I.』にもどしましょう。
 はっきり申しまして、スピルバーグは映画界の天才です。
「天才」という言葉を軽々しく使うのは好きではありませんが、この人は正に「天才」。
 天才とは、歴史を変える力を持っていなくてはなりません。
 これほどヒット作を連発させる能力を持った監督は見たことがないのです。
 それも、一時的な「ブーム」ではなく、創る作品はみな大ヒットです。
 それまでの映画人の多くは「才人」なのであって、「天才」などではないのです。
 天才は、100年にひとりか、ふたり出てくればよろしい。
「チャップリン」「オーソン・ウェルズ」「スピルバーグ」、この三人が映画界の三天才でしょうね。
 そのスピルバーグが、何故にキューブリックの影に気を使うのでしょうか?
 キューブリックに足元をすくわれてはいけません。
 デビューしたての頃からズバ抜けた才能を示したスピルバーグの方が、あきらかに格は上なのです。
 だいたい、アメリカにおいてもキューブリックは、変人扱いされているではないですか。
 このあたりの事が、わかっているようでわかっていないのですね。
 そして、このような持って回ったようなストーリーの作り方は、スピルバーグらしくありません。
「頭が変になった?」のではないかとさえ思えてしまいます。
 妙に昔風にしたてているところは変ですし、昔を懐かしがるような創り方は、ひょっとしたら映画人特有の「老い」なのかもしれません。
 そうだとしたら、これからのスピルバーグの作品は、注意して観ていかなくてはなりませんね。


 ところで、子役ハーレイ・オスメントの役名が「デビット」ですが、これは、ユダヤでは「ダビデ」です。
 巨人ゴリアテを倒したあのダビデです。
 そして、もう一人の子役の役名が、「マーチン」。
 うーむ、…マーチンですか……。
 たぶん違っているとは思いますが、ひょっとしたらあたっているかも知れません。
 それは、あの名子役「マーチン・スティーブンス」と、ダブらせているのではないかと言うことです。
「マーチン・スティーブンス」、この名前を聞いただけでは、おそらく誰も知らないと思いますが、言われてみればうなずくと思います。
 SF映画の最高傑作『光る眼(60年版)』でおなじみの史上類を見ない上品な顔立ちの子役のことです。
 後々、創られた全てのSF映画と怪奇映画に影響を与えたようなはまり役の子役、それがマーチン・スティーブンスでした。
 ひょっとしたら、スピルバーグの頭の中には、時空の制約がなければマーチン・スティーブンスを使いたいと思っていた部分が、あったのではないでしょうか。
 マーチン役の子もちょいと落ちるけど、なんとなくマーチン・スティーブンスに似ていますね。



  『A.I.』は、ハーレイ・オスメントなくしては考えられないような映画ですが、それは、デビット役にピタリとはまっているからでありまして、巷間言われている「天才演技力」ではありません。
 オスメントは、天才子役でも何でもないのですが、眼が「垂れ目」で、情けない顔をしているから、そのように見えるだけでありまして、これを「過大評価」と、申します。
 オスメントは、将来的には「ミッキイ・ルーニイ」みたいになってしまい、大きくなってからはあまり大した役者にはならないと思いますし、また、なれないと思います。
 でも、今が旬の子役なので、できるだけ稼がせてもらった方がよろしいでしょうね。



 ところで、映画の世界では、巨匠の域に達すると、必ずと言って良いほど、説教臭くなり、自己満足のかたまりのような作品を創りたがるのですが(ただし、元来映画というもの自体が自己満足の世界なのです)、その結果として、空洞に入って抜け出せなくなってしまうことがあるのです。
 そのような例は、いくらでもあります。
 スピルバーグは、巧なり、名をとげすぎてしまいました。
 そう言う意味においては、「気のゆるみ」と言えるかも知れませんが、もし、そうならば非常に危険な徴候であるといえます。
 映画という世界はその100年の歴史の中で、ほぼ出来上がっている世界でありまして、全ての答えは過去の映画の中に存在しているのです。
 過去の事例と照らし合わせると、スピルバーグは危ないですね。
 しかし、それとて、私の単なる杞憂(きゆう)なら良いと思いますし、私の指摘がまったくの取り越し苦労の、的はずれなら良いと思っているのですが。


2001年9月脱稿

(※本文中の敬称は略させていただきました)

著者紹介水野重康
49年、静岡県掛川市で100年以上続く医者の家に生まれる。
54年、『ゴジラ』を観て以後、映画にのめり込み、SFを中心として5000本近くの映画を観る事になる。
趣味を通じて、五味康祐氏、田山力哉氏、その他に師事する。
83年、生地に歯科医院を開業して現在に至る。

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