金子修介(以下金子)の人物像はと言えば、「若きSF映画の巨匠」であり、本多猪四郎の跡継ぎ」位に思っている人がいるのではないだろうか。
 兎に角、「久々に出現したSFのわかる新進気鋭の監督」と思っても、不思議はない。

 しかし、その実体は、「違うんだなあ、これが」と言うわけであります。
 では、その実体とは何でありましょうか、一年前から約束していた「論・金子修介」の登場であります。

 平成版「ガメラ」の製作が発表された時、「大怪獣空中決戦」と言う副題がまず、目に付きました。
「大怪獣空中戦・ガメラ対ギャオス」のリメイクであることがすぐにわかります。
ガメラ単独でなく、新怪獣登場でもなく、ギャオスと対決と言うことは安全策を取ったと言うことです。
失敗は許されない。
陳腐だと言われようが、認知度の高いギャオスを選んだ事は「大映」とのからみがあります。
これは後述いたします。


 オタクっぽい評論家が口をそろえて、特撮の素晴らしさを連発しているのは知っていました。
私は監督が金子であり、それまで、2〜3の映画しか観ておりませんでしたから、「怪獣映画を撮れるの?」と思っていたのです。
それで観てみたのです。

その結果は、はっきり言ってビックリしてしまいました。
但し、「中山 忍」があまりにも良かったので、ビックリしたのです。
「中山 忍」とはこれ程迄に良い女優だったのでしょうか?すごい演技力の持ち主でもなく、ふるいつきたくなる様な美人ともほど遠い、と言うのが私の認知している「中山 忍」でしたから、この変化のすごさに驚いてしまったと言う訳です。


 ここではっきりとしておきましょう。
私の評論は決して「主観」ではありません。
何千本と言う映画をスクリーンで観た事実と、それに伴う映画理論の裏付けの内に、自然と身に付いた客観的な目です。
「おすぎ」の様に「ケビン・コスナーが出ていれば全てOKよ〜」等と言うことや、故淀川長治の「みごとな演技でしたね〜」の類の馬鹿げた評論はいたしません。

では、何がすごいのでしょうか。


それは金子の「中山 忍」を撮る時の異常なまでの「ていねい」さです。
それは男女の「愛しさ」ではありません。
それ以上の何とも言えない様な「いつくしみ」を「中山 忍」の出ている画面からは感じます。
「兎に角、きれいに撮ってあげましょう」と言う感じがにじみ出し、まるで、「なめる」様に撮っています。
この撮り方の向こうに有るものこそが、金子最大の秘密だったのです。
この撮り方は「SF映画」にはこれまで皆無でしたが、近い例としては「新藤兼人」がこれと似た表現方法の撮り方をしていました。


それともうひとつ、服が常に変わっているのです。
まるで「着せ替え人形」の様に。
「SF映画」と言うものは、大体に置いて「着た切り雀」と言うのが常識です。
主役の藤谷文子よりもはるかに多い量をとっかえ、ひっかえで着こなす「中山 忍」この意味はいったいなんでしょうか?
私の結論は「これはガメラの映画の形を借りた中山 忍の映画である」と言うものでした。
事実、この映画の「中山 忍」は多くの人々が絶賛し、女優として数々の賞を受賞しました。
それほどまでに「中山 忍」は良かったのです。


 しかし、非常に疑問を感じました。
「SF映画」と言うものは、脚本の出来不出来が生命線で出演者は二の次三の次が原則なのです。

別の例に例えましょう。

「スター・ウォーズ」はその公開当時からヒロインの「レイア姫」が弱すぎると言われていました。
ルーカスは元々あまりうまい監督ではないのですが、それでも「レイア姫」が別人ならもっとずっと良かったはずです。
予算不足で、最終的に「キャリー・フィシャー」になりましたが(コネもあるけど)どうみても美人じゃないし、後世にまで残る希代の大悪役「ダース・ベーダー」と対比するのはあまりにもみすぼらしく見えてしまうのですね。
これが「ナタリー・ポートマン」級の人材ならもっとずっと良くなっていたはずなのです。

しかし、それでもなおあの面白さですからね。
これは「SF映画」において出演者はどうでも良いと言う典型例なのです。
そして、「ガメラ」の場合は、素材的には「キャリー・フィシャー」級の「中山 忍」です。
ところがヒロインとしての出来は大違い。どうなっているのでしょう。

 ここに、面白い事実があります。


金子がまだ自主映画を作っていた頃、ヒロインのクラス集合写真が出る場面で、わざわざ自分の母校(都立国分寺高校)へ出向いて、在校生をエキストラにして、集合写真の場面を撮ったのです。
一見、どうと言う事はありませんが、わざわざロケ班を組んだという処が面白い。
これは金子の根元的な問題に触れるエピソードであります。
ヒロイン−高校生と言う、金子の不変のラインが浮かび上がってくる。
これが伏線となって「ガメラ3」が出来上がってくるのです。


 そして、もう一つ。


巷間言われている事だが、「金子は少女偏重のきらいがある」と言う事。
はっきり申しましょうね。
「ロリコンががっている」と言う事です。
但し、この事は、映画という媒体を通じて表現した時、別に悪い事でも何でもないのです。
自分の主義主張なくして映画は撮れません。それでいけないのならば、「ビスコンティ」や「パゾリーニ」は一体どうすれば良いのでしょう。

 ところで「パゾリーニ」と言えば、私は以前「SF復活論」のどこかで「パゾリーニは自殺しました」と書いてしまいましたが、これは大間違いでして、正しくは、「パゾリーニは、その趣味の男に惨殺されました」と言うものです。
申し訳ございません。

 話を元にもどして、「中山 忍」の事を考えてみますと、たった一言で表現出来ます。
「好み」なのです。
このタイプがお気に入りなのです。定義いたしますと、金子の好みとは、ポッチャリ丸顔のやや小柄、大人を感じさせない「女の子」と言う処です。
そして、金子作品としては「かわいい女の子が出てくるメルヘン調」と言う処が基本なのです。
それを如実に表現しているのが「学校の怪談3」なのです。

この映画は企画そのものが夏休みの子供向けなので、一見、大した事のない映画に思われますが、これこそが、「金子修介の世界」なのです。
「学校の怪談3」の主役は「西田尚美」ですが、これには全くの無頓着でそれにひきかえ、子役の女の子(名前は知りません)はていねいに撮っています。
特に大事なのはラストでありまして、主人公(なのかな?)の少年が東京へ転校する段は、この少年が、前述の少年に、ほっぺたに「チュ」とされるシーンがあります。
これ正に、この少年こそが金子自身なのです。
対する少女は、金子の理想像です。
金子はこういうシーンを撮りたくて仕方がないのです。

もうひとつ、大事なことは、「学校の怪談3」の女の子、「ガメラ」の中山 忍、そして、集大成的な「ガメラ3」の前田愛、何となく似てるでしょう。
このラインこそが金子の描きたいと思っている女性像なのです。
映画の形は「オカルト物」や「怪獣物」になっていますが、その底部にうずまく心情は「かわいい女の子の出てくる甘酸っぱい青春物」なのです。
そう言う風にしてみると、全てが読めてくるのです。

 さて、その様な事をふまえて、年表的に金子の作品を見てみましょう。
 学生時代から自主映画に没頭していた彼は作品の主題を男女の淡い物語に置いていました。
主人公はほとんどが自分自身の投影です。

やがて、成人映画を任されて撮ることになりますが、これ自体は悪い事でも何でもありません。
邦画五社の崩壊してしまっている以上、監督としての腕を磨く最短の方法は大手の成人映画(AVではない)を数多く撮る事なのです。
但し、「大蔵映画」とか「新映」とかそういう老舗の処でないとだめですね。
それからAVは絶対にダメです。映画じゃありませんから。
なお、ご存知の事とは思いますが、「大蔵映画」と言うのは「新東宝」の社長「大蔵 貢(みつぐ)」の創った会社のことです。

 さて、成人映画で腕を磨いた後、「就職戦線異常なし」と言う変な映画を撮りましたが、まだまだと言う感じでした。

そして、東宝から頼まれて撮ったのが、出世作「学校の怪談3」です。
このシリーズは基本的に小学校で起こるドタバタ怪談物であり、一作ごとに新人監督を使った4年にわたる全4作のオムニバスという物です。
こう言う企画は、制作側にはすごく有難いのですね。
物は考え様で、基本を押さえておけば、後は自由なのですから。
そういうわけで、表面上はお子様映画の形ですが、内容は、まさに後々まで続く金子の小型世界です。
「火の鳥」の中の「復活編」みたいな立場と解釈して下さい。

 そして、「ガメラ・大怪獣空中決戦」です。
結果として大成功に導く事が出来たから良かったものの、製作当初は、「学校の怪談3」よりも、はるかに厳しい状況が待っていたのです。
今からその裏側を書きましょう。

 「大映」は倒産以後、その名を残しながら、「徳間書店」の関連会社となっていました。
しかし、「ガメラ」製作の頃は、その「徳間書店」も経営状態が悪く、多額の負債でそれこそ「ヒイヒイ」言っていたのです。
「徳間書店」は後に1200億円までふくらむ事になる負債をレコード会社の「徳間ジャパンコミュニケーション」と「大映」の売却により、とりあえず一息つこうと考えていました。
その様な時に「ガメラ」製作の話です。
「冗談はよしこさん」最初はそう言っていたのですが、「まてよ」と思うようになりました。
「ガメラは知名度が高いから、うまく当たれば大映自体を高く売れるぞ」そうなると話はとんとん拍子です。
しかし、制作費の面でうまく行かないので、「製作委員会」と言う情けない形を取りました。

ここで余談ですが、私が最も嫌う言葉のひとつが、「製作委員会」です。
一見、格好良く思われますが、これ程馬鹿げた言葉もありません。
「製作委員会」と言うのは、金を集めてくるのが仕事の「製作者」が何人もいると言うことでして、「貧者の一灯」の様な形で金をチビチビ集めてくると言うのが真相です。
製作者は一人なのが当たり前で、「長者の万灯」でなくてはならないのです。
この様な情けない形をとっているのは日本だけです。
でかい顔をして、「製作委員会」などと言っている内は日本映画の復活はあり得ません。

 話しをもどして、何故「ギャオス」を出したのかという意味は、どうしてもヒットしなければならないと言う裏の事情によるものでした。
実際、「東宝」でも「ビオランテ」や「メガギラス」を出した「ゴジラ」はどうも興行成績が悪いのです。

さて、この後、「大映」の親会社「徳間書店」がどうなったかと申しますと、一昨年に社長の徳間康快が死去し、かねてからの予定通り、「徳間ジャパンコミュニケーション」は第一興商に売却し、「大映」は「角川書店」の100%子会社になる話が付きました。
売却額は50億円です。
実を言うと、「角川書店」も結構な負債を抱えているのですが、「大映」の総資産が44億で、その中には時価35億の調布撮影所や1600本のソフト類が含まれるので、採算が取れると考えたのです。
但し、ソフト類著作権の半分以上は旧大映労組が握っているので状況は複雑です。

そして、「角川書店」も本体の経営が苦しいのに、何故「大映」を買収したのかと言えば前述の事柄に加えてその配下に映画製作会社の「アスミック・エース」を抱えている為、これに「大映」をからませて有効活用しようとしている事もあげられます。
「アスミック・エース」というのは、「住友商事」との共同出資会社ですが、「ピンポン」で今年大当りを取った会社でもあります。
(公開中の「ザ・リング」もこの会社が配給しています)
「ガメラ」シリーズが第三作で終了した裏もこのような理由からです。
会社の事情からも続けられなかったのです。
その様なわけで、「ガメラ」の製作にはかなりつらい事情が山積みしておりました。
制作費の問題と話題を提供する為に「藤谷文子」を引っぱり出して来ましたが、まるで金子の好みではないので、これまた、どうでも良い撮り方をされています。

 さて、「中山 忍」です。
これは憶測ですが、金子は前からこの女優を使って映画を作る事を考えていた様に思われます。
おそらく、オーディションはしていないでしょうね。
最初から「中山 忍」ありきです。
監督業と言うものは、「使いたい女優」と言うものが存在しているのです。
「使いたい」と言う意味は、「この女優の100%を引き出してみせるぞ、そして、120%に観せてやる」と言う事です。
金子における「中山 忍」はまさにこれです。
そして、好みとも合致していたのです。
「中山 忍」と言う女優を使うにあたり、必ず髪をセットしなくてはいけないタイプなのですが、どの場面でもこれまた、きれいにセットしてあります。
そして、着せ替え人形のよろしく何種類もの服を着て登場しています。
これほどまでに良く撮ってもらえれば、全くもって女優冥利に尽きますね。
逆に言うと、金子と言う監督は「好みの女優」ならば、恐ろしくきれいに撮れるという異常な才能の持ち主だったのです。
そして、そのように撮りたいが為に監督業の世界に入って来た人だったのです。
何回も申しますが、「ガメラ」は怪獣物の形はとっていても、その実は、いかに「中山 忍」をよく撮るかという映画だったのです。
特撮云々も結構ですが、それだけではありません。
それでは金子ワールドは理解できません。

「ガメラ2レギオン来襲」は「ガメラ3」の制作が前提となっている映画です。
そして、この映画は金子自身が自分の趣味を捨てて「怪獣映画」とガップリと組んだ作品です。

しかし、ヒロインの事を書かぬわけには行きません。
「水野美紀」とは、目の付け所が良いですね。
この子は女優として使う場合、かなり使いにくいタイプの子で、一見「ドヘタ」に見えますが、いわゆる「大器」なのです。
「バーニングプロ」の子ですから、どうしても動きが「モデル系」で撮る時もストップモーションを多用してやらないとうまく撮れません。
この子も設定がはまるとものすごく良く見えるタイプです。
「水野美紀」は良いですよ。
しかし、金子の好みではありますが(ストーリーの前半で制服姿でミニになっている場面があるから)撮りたい女優じゃなかったみたいですね。
その為でありましょうか、「ガメラ」「ガメラ3」は金子が自己世界を追及し過ぎている為、「怪獣映画」として最も良く出来ているのは、実はこの「ガメラ2」なのです。

 さて、問題は、「ガメラ3・邪神覚醒」です。
巷間言われている「特撮」の良さだけに血道をあげている人はいわゆる「オタク」の人ですね。
何もわかっちゃいない人です。
「ガメラ3」こそは真の金子ワールドなのです。
最も大事なのは、イリスと合体する「前田 愛」の位置です。
「ガメラ3」を観て、「何故、高校生の青臭いストーリーを展開するのだろう」と誰しも思ったはずです。
以前の東宝や大映の子供が出てくる怪獣物とダブらせた人もいたと思います。
それはそれ、これはこれでありまして、以前のものは単なる「お子様向け」だから子供が出ていただけなのですが、「ガメラ3」で高校生が主人公(?)と言う設定は、何回も申しているように、金子が撮りたくて仕方のないテーマなのです。
「ロリコン」がかっている金子にとって、制服姿の「前田 愛」は、正に理想でして、やたらと「前田 愛」ので番が多いのは正にこの為であります。
そして、「前田 愛」に淡いものを感じて、その窮地から救うべく、行動を共にする同級生の少年(名前不明)はこれまた金子自身の投影であり、「学校の怪談3」の高校生版で、なおかつ「正調金子節」という処でしょう。

 さて、「ガメラ3」には一人、妙な配役が設定されています。
「山咲千里」です。
このムチムチした色気の固まりの様なおネエちゃんは、一体何を意味しているのでしょうか?
先に述べた様に金子はこのタイプには無関心なのですから、物語の性格上、「ガメラシリーズ」を完結させる為に必要な「まとめ役」の様な配役なのでしょうね。
つまりは、理由付けの為に登場させた人物なのでしょう。

しかし、この女優(?)は、ヘタなくせに色気過剰で自己主張の固まりの様な人間ですから、「金子ワールド」には相いれないものがあります。

しかし、私個人としてはこの役所(やくどころ)の「山咲千里」は好きですねえ。
「SF物」は、どこかで「色気」を作らないとダメですからねえ。
偶然とはいえ、この存在は実は正しい設定なのです。

次に、「ガメラ3」には注意して観ていただきたいシーンがあります。
このシーンには必要欠くべからざるの道具(アイテム)が登場します。
それは、イリスと共に存在している「宝剣」です。
ラスト近くで、この「宝剣」をイリスに投げつけるシーンがありますが、このシーン、多くの観客は「宝剣には特殊な力があり、これを使ってイリスを倒す」と勝手に思い込んでいたと思います。
ちょうど「わんぱく王子の大蛇退治」で曲玉が剣に変化する様にですね。
何か劇的なる変化が起こると思っていたのではないですか。
しかし、しょせんは木で出来た剣です。
「宝剣」は「前田 愛」にぶつかった後、無情にもカラコロと転がるだけでした。
しかし、これこそがリアリズムです。
このシーンは全く私の思った通りの展開でありました。
これはわかりやすく言うと、ビンタみたいなものでして、「愛のムチ」の様な感じなのです。
金子ワールドではこれは「学園もの」なのです。
劇的変化があればそれは金子の描く世界とは離れてしまうのです。
イリスが「ギャオー」と言ってのたうち回るシーンを連想した人は安っぽいオタクアニメやオタクSFに毒されている人です。
第一、「宝剣」の力を示す伏線が何も張られていないのですからね。


 ところで、多くの人々は映画を感覚で観ようとします。
もちろん感覚だけの映画もありますが、映画というものは理論の産物なのです。
理論の中核を成すものは、モンタージュとカット割り、構図とコマ数です。
そして、監督の主張という服を着せるのです。
「この映画は何を表現しようとしているのか? このカットは何を意味しているのか?」
今と違って昔はそれこそ「難解」な映画が大はやりでした。
名のある監督は、意味なくして映画はつくらず、一コマ毎にその意味があったのです。
一コマ一コマに監督の言わんとする言葉が散りばめられていました。
私は、そう言う分析をする事を得意としており、私の評論もそう言う形を取っています。
今回の金子の件についても、金子はスクリーン上で自分の世界を創り、主張しているのです。
「怪獣映画」と言う表現の裏側に在るものを観てやらなければならないのです。


 「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」は、「ガメラ」の成功があって出来た映画です。
でも、何か変なゴジラだと思いませんでしたか。
ゴジラシリーズの中でまるでつながっていません。
このつながりの無い処が実はミソなのです。

前作「ゴジラVSメガギラス」があまりにも不入りだった為に、東宝はゴジラシリーズの打ち切りを一時は考えました。
不入りの原因は色々ありますが、大きくは二つです。
まず、ゴジラの着ぐるみが良くない事、新怪獣「メガギラス」の認知度が低く、メジャーな怪獣になり得ない事などです。
そして、「もう一作だけ」と言う条件で「どうせ打ち切りだから、ダメで良いからね」と金子に言って作らせたのが、「大怪獣総攻撃」でした。
それで、ストーリーも発想も自由にやらせてもらいました。
しかし、根本的にはあまり、乗り気がしなかったのでしょうね。
金子にとって一番大事なヒロインを「新山千春」で頼むと「東宝」から設定された時からそれは始まっています。
こういう肉体派で、背の高い、お尻プリプリと言う女優(?)は、全く好みではないのです。
その反動で、「新山千春」自体、髪はボサボサの着たきり雀状態おまけに水泳シーンまであると言う感じで全くの適当に扱われています。
金子の場合、好みのヒロインならば、水に入れたりはしないでしょう。

但し、好みの子を一人だけ登場させています。
「エ!!」と思うかも知れませんが、「篠原ともえ」がそれです。
「新山千春」より全然良く撮れています。
この様に良く撮ってもらったのは初めてじゃないでしょうか。
これは、ほとんどの人が気づいてないと思います。
しかし、先に述べた「好み」のタイプと以外にも合致するのですね(ちょっと変な子だけど)

「大怪獣総攻撃」はあまり気が乗らないけど撮った、と言う処で立場的にはリラックスしたやりたい放題の作品でした。
しかし、これが結構良かったのです。
作品としても上々の仕上がりでしたが、もう一つ、特筆すべきは音楽です。
「大谷 幸」の作品ですが、この人は金子の音楽を専門に作っていますが、段々とうまくなって行き、この「大怪獣総攻撃」では「大谷 幸」の最高作品とも言うべきスコアを書きました。
これにより、「大谷 幸」は一気にメジャーになりまして、テレビ朝日系で日曜にやっている「劇的・ビフォーアフター」等の音楽を頼まれる様になりました。
「大怪獣総攻撃」でのかなりのウエイトを占めているのはこのスコアによるものです。

 さて、ここまで書いて来て、一応「論・金子修介」は完了なのですが、実はもう一つ作品が残っています。
この時点ではまだ未公開の「恋に唄えば」です。

この作品も「就職戦線異状なし」と同様、コミックスが原作でロリコンっぽい処が出ていますが、この作品にも金子好みの子がいるのですね。
それで、ヒロインは「優香」ですが、以前の巨乳ムチムチ時代ならばとてもだめですが、今は何故かしぼんでしまってスリムになっていますから、この「優香」ならばいけるのでしょうね。
もし、「優香」が金子の好みならば今まで見たこともない様なすごい「優香」が出現するはずですし、これこそが「優香」の大出世作になるでしょう。
しかし、そううまく行きますか。
第一、「優香」にミュージカルができるのでしょうか。
期待と疑問符の背中合わせの様な感じです。
そして、ここにも「篠原ともえ」が出ています。
やはりこのラインだなあと言う感じです。

で、この「恋に唄えば」二つの気になる点があります。

一つは、「竹中直人」。
この御仁はたいしてうまくないくせに自分の世界を主張しすぎる傾向があるのです。
何せ、デビューが「顔面形態模写」ですから、表情がハデすぎるのです。
金子が演技を付けてやれるかどうかが勝負です。
しかし、言うことを聞くかなあ。

もうひとつは、ミュージカル仕立てと言う事です。
ミュージカルは結構難しいのですよ、金子に出来るのかなあ。
でも、方法はありますよ、
昔の「東映城」の頃、よく使われていた和風ミュージカルの極意みたいなものがあるのです。
「恋あり、笑いあり、活劇あり、そして、色気あり」と言うのですが、これをそのままうまく使えば良いのです。
そして、「恋に唄えば」がミュージカル仕立てであることを考えると、歴史的に面白い事実があるのです。

それは、SF大好きで「SF映画」を得意としている監督が、「ミュージカル」を作った事はほとんどないのです。
監督は万能人間ではありませんので、ほんの数人を除いたら「SF映画」と「ミュージカル」を共に作れる頭の構造になってはいないのです。
数少ない一人が「ロバート・ワイズ」です。
あの「地球が制止する日」や「たたり」を作った人ですが、何と「ミュージカル」の最高峰「ウエストサイド物語」を作ったのはこの人です。
さらには、「サウンド・オブ。ミュージック」も作っています。
凄い監督ですね。

もう一人あげれば、あの「コワモテ」で恐ろしい監督の「ハワード・ホークス」も、「遊星よりの物体X」や「紳士は金髪がお好き」を作っています。
せいぜいそれ位です。
それとも、金子は「ロバート・ワイズ」級の万能監督なのでしょうか。
何せ、あの天才スピルバーグでさえやった事はないのですから。

 長い話しではございましたが、結論はいたって簡単です。
金子は決して「SF映画」が好きな監督ではありません。
自分の世界を「SF映画」で表現しているだけなのです。
これは、ちょうど「実相寺昭雄」と同じですね。
「円谷プロ」にいて「ウルトラシリーズ」を撮ったり、「東宝」で「帝都物語」を撮ったからと言って、心の底からSFが好きというわけではないのです。
専門は「無常」で表現した「ドロドロ」とした近親相姦の世界して、「SF映画」はカバーに使っているのにすぎないのです。
それと同じ事ですよ。


(2002年11月脱稿)

感想等を「懐かし掲示板」にてお聞かせ下さい。

(※本文中の敬称は略させていただきました)

著者紹介水野重康
49年、静岡県掛川市で100年以上続く医者の家に生まれる。
54年、『ゴジラ』を観て以後、映画にのめり込み、SFを中心として5000本近くの映画を観る事になる。
趣味を通じて、五味康祐氏、田山力哉氏、その他に師事する。
83年、生地に歯科医院を開業して現在に至る。

このコーナーへのご意見をお聞かせ下さい
へ戻ります
contentsへ戻ります
トップページへ戻ります


ナスカ無料ホームページ無料オンラインストレージ