「宝塚映画」の名子役
頭師四兄弟の話

水野重康


「ピカ助捕物帳」(下に資料)の「ピカ助」は「頭師孝雄」が演じている事を知りました。

「何だ、フウフウ(後述)が演っていたのか・・」と言うのがすぐに頭を横切りました。
古い知人に突然出会った様な感覚です。

その様な訳で「ピカ助捕物帳」から派生した話ですが「頭師四兄弟」のお話であります。

「頭師四兄弟」と言うのは、大阪は西成区出身の子役達なのですが、五人兄弟の内、長男を除いた残り四人が皆、揃いも揃って「宝塚映画」の息の掛かった子役達・・と言う、日本映画史上どころか世界映画史にも類を見ない非常に珍しい兄弟なのです。

兄弟は次男「正明」、三男「孝雄」、四男「満」、五男「佳孝」です。

まず、次男「正明」が朝日放送(ABC)の歌番組に出演したのがきっかけとなり、そのまま「宝塚映画」に出演する様になりました。
「正明」に付いて撮影所に遊びに来ていた三男「孝雄」は「鞍馬天狗」の撮影スタッフの目にとまり、映画に出る様になり、「正明」と共演した「草笛の丘」のヒットにより「宝塚映画」と専属契約を結ぶに至ります。

そして、「久松静児」の「つづり方兄妹」で次男「房雄」事「フウフウ」を演じ、これが大評判になりまして、その「地位」を決定的なものとしました。

「つづり方兄妹」と言うのは、その当時、「つづり方」により色々な「賞」を総ナメにした、野上丹治、洋子、房雄の三兄妹の実話を映画化したもので、俗に言う「文部省特選」(今は文部省じゃありませんでしたネ)みたいな映画でして、「映画教室」(昔はこう言うものが有りました)で見ている人も結構おりますよ。

「赤貧洗うが如し」の様な生活で、「フウフウ」は最後には病気で死んでしまうと言う「感涙物」の映画でありました。
その後、今度は四男「満」が「正明」「孝雄」の「弟」だと言う訳でイモズル式に銀幕デビューいたします。

さて、最後に出てくるのが「頭師四兄弟」最大の名子役、五男「佳孝」であります。
「佳孝」も前述の例にもれず、撮影所に出入りする内に、これまた「何となく」兄貴達と同じ道をたどる様になっていました。
処が、兄貴達と全く違うのが「佳孝」の「演技」は、後年言われた「陰の演技」とか「沈黙の演技」と評されるものだったのです。
つまり「子供臭さが全く無い演技」なのです。
これを最初に見つけたのが「乙羽信子」でありまして、さっそく「新藤兼人」の所へ連れて行きまして「この児はスゴイ!!」と紹介しました処、「新藤兼人」も一目でその「スゴサ」を見抜き「こりゃスゴイ」と驚きました。

そして、早速「母」と言う映画に起用しました。

この「母」と言う映画での役どころは「乙羽信子」の連れ子で、自らが不治の「脳腫瘍」(何となくベン・ケーシーの世界だぞ!!)と言う、とんでもなく難しい演技を要求されたのです。
これが、又、えらく不気味な演技でして私は当時「こりゃすごいな」と思ったものでした。

「母」の成功はこの後、途方も無く巨大なる存在を呼び寄せることになります。
巨人「黒澤明」がその頂点とも言える作品の一つ「赤ひげ」の子役を探していたのです。
子役は二人。
「二木てるみ」ともう一人の子役「長次」の役でした。
当時、「最も困難を極める長次役に頭師佳孝を得た事で、この作品(赤ひげ)の成功は決定した・・」とえらく「大騒ぎ」になったのを覚えております。
「佳孝」は「子役」ながら一気に実力派へと昇りつめ、この後、色々な映画に出ましたが、「どですかでん」では主役まで勤めるに至りました。
現在は「舞台」を主たる仕事場にしております。

尚、三男「孝雄」はよくTVに出ておりまして「悪役」が板についてしまいました。


2004年11月

ピカ助捕物帳

1958(昭和33)年9月〜 関西テレビ
出演:頭師孝雄、笑福亭松之助
目明し幸吉の一人息子ピカ助が、親に代わって事件を解決する捕物ばなし。

(※本文中の敬称は略させていただきました)

著者紹介水野重康
49年、静岡県掛川市で100年以上続く医者の家に生まれる。
54年、『ゴジラ』を観て以後、映画にのめり込み、SFを中心として5000本近くの映画を観る事になる。
趣味を通じて、五味康祐氏、田山力哉氏、その他に師事する。
83年、生地に歯科医院を開業して現在に至る。

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