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水野重康


「キング・コング」と言う物語では「壁wall」の設定が実は大事なのです。
「1933年版」での「壁wall」は・・・。

1)見る者を圧倒する、途方もない「壁wall」が、現世と太古の「原始魔境」を隔てている
2)一体誰が何のために作ったのか・・・
 と言うミステリアスな「謎」の部分
3)「コング」の大怪力によって打ち破られる「壁wall」が「見せ場」になっている

1)は、「壁wall」と対比させる為の広大な砂浜のコントラストが良く出ている(アッケラカンとし過ぎているが)。
この「砂浜」が 画面に「美しさ」を提供している。
それに「コング」をどのようにして運んだのか?、と言う問いにも答える結果となっている。

2)は、続編たる「コングの復讐」への伏線になっている。
「原住民」とは別の「先史古代文明」があり、その遺跡の中に「宝物」が隠されている・・・
という「オマケ」付き。

3)この部分は「1933年版」では指折りの名シーン。
しかるに「新作」では「アッと言う間にバラバラのバラバラ・・・」、「ピーター・ジャクセン」風の「リアリズム」だとさ・・・。

先程来、「リアリズム」がどうのこうの・・・と言う事を私は盛んに書いておりますが、SF物(含、怪獣物)は、ある程度「大風呂敷」を広げた方が面白くなるのでしてね、あまりにも「リアルな描写」は良い結果を生まない事が多いのです。
「SF」の日本語訳「空想科学物語」は伊達や粋狂じゃないのですヨ。

「ピーター・ジャクセン」は、どうも妙にそれも「ヘンなリアリズム」に走りたがるみたいですね。
他の作品では「リアリズム」全く無視の事があるのにね・・・。
「映画」に於いて「リアリズム」と言うのは「影像美」と対極に設定するものですから、あまり追求すると「小汚くて嫌味」になるのですよ。
その辺を分かっているのでしょうか?
そして、この新作「キング・コング」でのNO・1的な「リアリズム」は「キング・コング」の姿でしょうね。
この「リアル」さは正直驚きます。
正に「リアル」であり、これこそが「リアリズム」。
でもね、「成功」は常に「失敗」の影を背負っているのです。
この「コング」はリアル過ぎる・・・。

その姿は、どう見ても「巨大なゴリラ」であり、
「人知をそして人類の想像を遥かに越えた巨大なる獣神キング・コング」ではなくて
「巨大ゴリラ キング・コング」であります。

「キング・コング」の大きなテーマの一つに、
「文明の世界に引きずり出され、人類の軍門に下った原始の神」
と言うのがある。

これは、人類の歴史の中に幾度となく登場して来た
「新世界の神が旧世界の神を駆逐する」
と言う図式に当てはまる。
・・・であるから、
「アン・ダロウ」は「生贄」ではなくて、
旧世界の「獣神キング・コング」との婚姻を行う「花嫁」であり、
「コング」は「花嫁」と「旧世界の威信」を守る為に「ひたすら戦う」
と言う図式が成立し、「コング」は「巨大ゴリラ」と言うよりも神格化された
「旧世界の怪物」あるいは「旧世界そのものの象徴」
と言う想定になる。


しかるに、今回の「コング」の出来があまりにも素晴らしいが故に
「どう見ても巨大ゴリラ」に見えてしまい、
神秘的なる「獣神」の「神」の部分が消えてしまい、
単なる「巨大ゴリラ」になってしまっている。
この部分を私は何回も強調して述べているのです。

「ジュン・ギラーミン版」は、非常に出来のよい着グルミ使用であったが、いくら「出来が良い」と言っても着グルミは着グルミ
今回の特撮はそれを遥かに上回る究極的な出来の良さであり、只、それ故に逆に「巨大ゴリラ」の部分が強調されてしまった・・・
と言う誠に皮肉な結果になってしまった。
「ジョン・ギラーミン版」は「コングの足が長くて体格が良いから、軍人がアルバイトでコングの中に入っている・・」等と言われました。
つまり、やや「スキ」がある出来だったのですが、この事が逆に「怪獣」っぽいイメージを出していました。

美女の色香に迷い身を滅ぼす「豪傑」の話として、旧約聖書の「サムソンとデリラ」があり、この物語の中で「力の源である髪の毛を切られる事により力を失い挙句の果てには盲にされてしまう」のがあり、「神の力は髪に」と言うことが強調されています。

つまり、「獣神キング・コング」の無敵の力は、
巨大なる「壁wall」の中の「原始魔境」で発揮、維持されるものであり、
この世界の中では正に「無敵の存在」=「神」なのです。

その「神」が文明世界へと引きずり出された時に「起きるべきして起きた悲劇」と言うのが「1933年版」の真骨頂であります。

「ピーター・ジャクセン」は、その特有の「ヘンなリアリズム」で
「原住民の作る壁wallはこれが望ましい、これこそがリアリズムである・・」
と考えてその様な「イメージ」で製作したのですが、これぞ、よく言われるところの「リアリズムの落とし穴」なのです。

「壁wall」には先にも述べました様に「物語としての意味」があるのです。
それは「かなりいい加減」の様に見えても、そこには「面白さ」と言うものが内包されており、道理一辺倒の「リアリズム」では説明出来ない、又、「リアリズム」とは全く異なった世界をそこに構築しているのです。

そもそも「元祖怪獣映画」みたいな「1933年版」をいちいち「リアリズム」で理詰めに説明しようとするから妙な事になるのです。

そして、さらに気になったのが「落日」を思わせる「髑髏島」の山頂の風景と「コングの妙なジジ臭さ」です。

戦いに明け暮れた日々を過ごし、気が付けば仲間も身よりも死に絶えた、たった一人の(?)初老の身、孤高を貫き「神」と崇められるも突如出現した「異性物の美女」に心を奪われ、遂には「ええかっこしい」のまま「異世界の象徴」の様な「摩天楼」の遥かなる天空より墜落して非業の死を遂げる・・・
と言う内容は「浪花節的要素」があり過ぎて、これではまるで「阪妻」の「無法松の一生」ですな。
「コング」の剛毛に「白い物」がチラホラと見えるのは、何回も申しますが「リアリズム」のやりすぎだ。
その為、ラストに近づくほどに「悟り」を開いた死期の迫った英雄の様になってしまっています。

落日の哀れ、滅び行くものの美学を描いた形になってしまった・・・
と言う事実が果たして正しいのでしょうか?
それでは、最初から「非業の死」が決定されてしまいます。
この展開方は正しくない。

「神」にも似た強大な力を持つ「怪物」の最期を描く事により、
It was beauty killed the beast
の文字が浮かび上がって来る。

この「ラスト」に向って一直線に突き進んでいかなくてはいけないのであるが、新作「キング・コング」では、どうもこれが上手くいっていない。
結果的に「コング」登場までに「蛇足的部分」が多いので、「ラスト」に向う「爆発的なエネルギー」が不足しているのです。
だから、ラスト付近の一番大事な部分が息切れ状態(特撮は本当に素晴らしいのだが・・)になってしまい、
It was beautu killed the beastが生きて来ない。
この「セリフ」は「ジャック・ブラック」が「ボソッ」といった風にしてはダメなのですよ。
ここが最後の最後に用意された「物凄い見せ場」なのにね・・・残念だね。

「ピーター・ジャクセン」は「キング・コング」に惚れ込んでこの「新作」を作ったと言われておりますが、「力み」が目立ち過ぎるのがこの「新作」の欠点。
どうせ作るのならば、もっともっと「キング・コング」に惚れ込んで作ってほしかった。

いや・・それとも「惚れこみ過ぎて」、「惚けて」(ぼけて)しまったのかなア・・・。
「ほれる」と「ぼける」は字が同じですからね。


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2006年10月脱稿

(※本文中の敬称は略させていただきました)

著者紹介水野重康
49年、静岡県掛川市で100年以上続く医者の家に生まれる。
54年、『ゴジラ』を観て以後、映画にのめり込み、SFを中心として5000本近くの映画を観る事になる。
趣味を通じて、五味康祐氏、田山力哉氏、その他に師事する。
83年、生地に歯科医院を開業して現在に至る。

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