外伝

水野重康


これは、1933年版「キング・コング」に携わった人々と「RKO」の後日談です。
「キング・コング」とは直接には関係の無い話であり、いわゆる「映画史」の一部なので、退屈極まりなき話かもしれませんが「豆知識」の一つとして御読み下されば幸いです。


「マックス・スタイナー」が「RKO」にやって来た時、公私に渡って面倒を見ていた「デビッド・O・セルズニック」は1933年の「キング・コング」公開時には「RKO」の製作部長の職を離れ、新天地として「MGM」副社長の地位に迎えられていた。
一方、「マックス・スタイナー」は「RKO」内部でのゴタゴタに嫌気がさし、この件で「セルズニック」に相談すると、「セルズニック」はすぐに「WB・ワーナーブラザース」への移籍の道を示し骨を折ってくれた。
「セルズニック」は「MGM」での契約を果たすと、1953年に「MGM」を離れ、新たに「セルズニック・インターナショナル」を設立し、映画の製作に乗り出した。
そして、その翌年、後に「映画史」を変える事になる壮大な作品が出版され、「セルズニック」は「大博打」を打ち、この原作を手に入れる事になる。
その版権は、当時としては破格の5万ドルと言われている。
この作品は、3年半の歳月を掛ける「超巨編」になって行った。
この作品の「音楽」を誰にするか・・・と考えた時、「セルズニック」は「ダメで元々」のつもりで旧知の「マックス・スタイナー」に声を掛けました。
既に「大巨匠」の位置に在った「マックス・スタイナー」はそれを聞くと、「貴方に受けた恩は忘れてはいません」の言葉と共に、全てのスケジュールを調整して、この作品への参加を表明しました。
そして、完成した映画はこれぞ「真の超巨編」となり、この世に「映画」の有る限り、未来永劫に渡り「映画の王」として語り継がれて行く名作となりました。
「マックス・スタイナー」はこの映画に心血を注ぎ、その名はこの映画と共に「不滅」の文字が刻まれる事になりました。
その映画とは「風と共に去りぬ」

「風と共に去りぬ」は例え「セルズニック」でなくとも、必ずや「映画化」された作品ですが、この「セルズニック」製作による作品を上回ることが出来たかどうかは疑問であります。
そして、この「映画の王」的な作品は、その元を辿りますと、「キング・コング」に行き着くのです。
単なる「ゲテ物」映画「キング・コング」では在りましたが、後々の「映画界」に残したものは非常に大きな「遺産」だったのです。

さて、それでは「キング・コング」を創った「RKO」はその後どうなったか・・・と申しますと、相も変らぬ「ヨタヨタ」状態でした。
しかし、この状態こそが、後の「映画史」に伝えられる事柄を呼び込むことになるのです。
ここに、ある人物が登場して来ます。
それが、大富豪「ハワード・ヒューズ」です。
「ハワード・ヒューズ」は一代の「風雲児」で、その「本」も沢山出ていますので詳しくはそちらに譲りますが、「映画史」を語る上で「避けて通れない人物」である事には異存は無いと思います。
それで、ご存知の事とは思いますが、簡単に触れてみる事にいたしました。
そもそも、「ハワード・ヒューズ」は父親が石油工場を経営しておりまして、そこの「ボンボン」だった訳ですが、これを元に色々な事を始めまして、世に言う「百万長者」となりました。
(航空機の設計製作兼操縦者、大ビール会社の大株主、機械製作会社社長その他沢山)
その「ハワード・ヒューズ」は今で言う「奇人」の仲間なのですが、「映画制作」に目をつけて、その会社を立ち上げました。
そこで、世に出したのが「暴力団」「犯罪都市」そして「ジーン・ハーロー」の「地獄の天使」。
「奇人」の面目躍如と言う訳で「暴力的傾向」の有る映画を得意としていました。
但し、世に言う「暗黒映画」と言う分類には入りません。
そして、ここで登場して来るのが「ジェーン・ラッセル」の「ならず者」です。
これは、1940年に「MGM」が創った「ビリー・ザ・キッド物」の「コピー・キャット」でありまして、最初は「20世紀フォックス」で配給の予定だったのですが、金銭問題(配給権とその取り分)で話が決裂してしまい、仕方が無いので自主興行を行った処、宗教団体の圧力で(暴力シーンが目に余る・・・)上映禁止の事態になってしまい、「それでは・・・」と言う訳で今度は「ジエーン・ラッセル」の水着写真を色々な雑誌に配布する・・・と言う手を考え付きます。
その数は700万枚。
これを、「アメリカ兵士」は「壁」に張って戦地へ赴きました。
「ピンアップ」と言う言葉はここから生まれ「壁にピンで留めて眺める」と言う事から始まっています。

「ハワード・ヒューズ」は自分の惚れこんだ「無名の新人女優」の為に100万ドルを遥かに越える(当時の・・・)宣伝費を投じました。
そして、大戦の終了後、「ピンアップ・ガール」の女王「ジェーン・ラッセル」を目当てに映画館へと足を運んでくれるであろう「復員兵士」目当てに、今度は「ユナイト」で前述の「ならず者」を上映しようとしますが、これまた、「暴力シーン」が災いして各地で「上映禁止」となってしまいます。
処が、今度ばかりは「ハワード・ヒユーズ」も怒り、司法の判断を仰ぐべく「法廷闘争」の場に持ち込み、これに勝利をし、「上映禁止措置は無効である」との判決を勝ち取ります。
しかし、各映画会社はその配給に尻込みしてしまいまして、別の意味で「ならず者」は上映出来なくなってしまいました。

そして、ここで打った「手」が「RKO」の買収でありました。
1948年、882万5656ドル(こ、細かい・・)の現金(当時!!)で「RKO」は「ハワード・ヒューズ」の手に落ちました。
そして、1950年「RKO」を通じてついに「ならず者」は全面的上映の運びとなりました。
つまり、「ジェーン・ラッセル」の「ならず者」と言う映画を、一本上映すると言う「たったそれだけの事」に「ハワード・ヒューズ」は10年の歳月と巨万の富を惜しげもなく投入したのでした。
これが「ハワード・ヒューズのRKO乗っ取り事件」です。

この後、「ハワード・ヒューズ」は「RKO」を食いつぶし、1955年には「面倒くさいから・・」と手放してしまいます。
そこまで、やっとの事で持ち応えていた「RKO」はその2年後の「女優志願」(シドニー・ルメット)を最後の煌きとして、破産、消滅します。

さて、最後に「メリアン・C・クーパー」です。
彼は実に意外な形で、「東宝」の「ゴジラ」にその影響をあたえたのです。
「ハワード・ヒューズ」が「RKO」を手に入れた時と前後して「メリアン・C・クーパー」は「RKO」を離れ、ここで、巨人「ジョン・フォード」と手を組み「アーゴシー・プロ」を設立します。
ここで製作した主なものは「アパッチ砦」「黄色いリボン」「静かなる男」、製作はそれぞれ「RKO・アーゴシー」「RKO」「リパブリック」です。
そして、その後、新方式の映画「シネラマ」に活路を求めて「トーマス・クーパーフィルム」として、「これがシネラマだ!!」を製作します。「これがシネラマだ!!」は実験的な映画でありまして、世界各地の風景を見せる映画でした(日本では鎌倉の大仏が出た)。
この映画は「ジャングル映画」にその源流を見る「メリアン・C・クーパー」の映画そのものでした。
「メリアン・C・クーパー」は自分の創造した世界へと帰って行ったのです。
ついでながら、「リパブリック・フイルム」は「ボロボロ」の状態になり「RKO」とほぼ同じ時期に「倒産」いたしました。
この後、「RKO」の倒産は「職」を失う恐れの有る「ハリウッド」の技術者達の焦りと恐怖を生み出し「俳優組合のストライキ」と言う事態を引き起こしていくのでした。

「キング・コング」を創りだした「メリアン・C・クーパー」は巨人「ジョン・フォード」と結びつき、「ジョン・フォード」を「師」と仰ぐ「黒澤明」にその手法は伝えられ、「黒澤明」の「兄弟弟子」である「本多猪四郎」にその遺伝子は回り、「キング・コング」の「鬼っ子」の様な形で「ゴジラ」が登場することになります。
時代には数年間の「ズレ」がありますが、この映画界の巨人たちの思想はどこかで繋がっているのです。
その全ての源流の一つが「世界八番目の不思議・キング・コング」なのです。

次回、最終編「キング・コング3」に続く
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2006年1月脱稿

(※本文中の敬称は略させていただきました)

著者紹介水野重康
49年、静岡県掛川市で100年以上続く医者の家に生まれる。
54年、『ゴジラ』を観て以後、映画にのめり込み、SFを中心として5000本近くの映画を観る事になる。
趣味を通じて、五味康祐氏、田山力哉氏、その他に師事する。
83年、生地に歯科医院を開業して現在に至る。

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