- 巨人・黒澤明の世界は、各方面で色々な方々が触れています。
- 今回は表題のことについて、少々書いてみたいと思います。
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ところで、「れば・たら」は禁句なのですが、黒澤明監督のよる『真・トラ・トラ・トラ』が、世に出ていたのなら、間違いなく世界映画の潮流は変化していたと思われます。
この作品は、本来ならば壮大なる「黒澤実験映画」になる予定でした。
主なる役は「ド」が付くような素人で固め、プロの役者が少数で脇を守り、全てに本物級のセットを組み上げ、自らは絵画的構図を持って、最上級の巨編を創り上げようと、目論みました。
しかし、黒澤芸術は、二十世紀FOX首脳陣には、理解されませんでした。
- 「金銭と時間の浪費のみに熱心な無能の変人」と、思われてしまったのです。
その遠因は、二十世紀FOXの屋台骨をゆるがし、マリリン・モンローを、自殺に追い込んだ、世紀の巨編『クレオパトラ』でした。
予定をはるかにオーバーする製作費と、日数の『トラ・トラ・トラ』は、正しく『クレオパトラ』の、よみがえる悪夢だったのです。
それだけならまだしも、黒澤自身、内からは子分である三船敏郎らに
「役者と言う演技のプロを、何だと思っているんだァ」
と、つき上げられる始末でした。
暗闘の果てに苦汁の決断がなされ、黒澤解任劇が起こってしまいました。
後に作品は、黒澤一家の小国英雄と、菊島隆三が脚本として残り完成されましたが、残念なことに大物量的戦争映画になってしまいました。
- この後味の悪さは、後に『タイタニック』における首脳陣の異常な寛大さとなって現れました。
『タイタニック』は、公開されるまでは、「テクニカルマスターピース(技術的に偉大な作品)」等と馬鹿にされ、「失敗作」の烙印を押されていましたが、開けてビックリ。映画史上七不思議のひとつとまで言われる大ヒットをしてしまいました。
ただし、黒澤の時と違って、キャメロンは実についていました。
それは、この時、二十世紀FOXを支配していたのが、マードックだったと言う事です。
マードックは、パラマウントに製作費の半分を負担させるという、腹芸の持ち主だったのです。
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さてA『トラ・トラ・トラ』に何故「素人」を起用したかについては、後の『影武者』における「勝新太郎」との問題を、考えなくてはなりません。
しかし、これは「演技論」と言う形で、いずれ書かせていただきたいと思います。
以後、黒澤明は「太陽地に落ちる」が如く、権威失墜してしまいます。
『どですかでん』、『デルスウザーラ』を見て、誰もが思いました。
「以前の黒澤明とは違う…」
ちょうど、選手時代と、監督になってからの長嶋さんの様な感じでした。
- 何かが違っていました。
さらには、『乱』を観た多くの評論課は、思いました。
「黒澤明は、長くない」
仲代達矢の奇怪なメークにしてもそれが表れていました。
私の師匠・田山力哉も言っておりました。
「映画人があの様な作品を創ると、必ず死ぬよ」
しかし、大方の予想に反して、黒澤明はますます五体壮健、不死身の老人と言った感じでした。
そして、残り三作品に最後の大変身を見せたのです。
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『夢』。
- これは、黒澤唯一の恐怖映画と位置付けられます。
- ただ、一般的な恐怖映画が外に向かい、観客へ向かって行くのに対し、『夢』は、監督である黒澤自身の内面にヒタヒタと迫る恐怖である事が異なります。
「老い」の自覚、そして、その後に続く「死」と言う、暗黒の恐怖に突き動かされ、具体化した映画なのです。
『夢』は、生涯の回想の形で成立しています。
- 幼年時代の夢、青年時代の夢、戦争体験の夢、絵画(映画)にのめり込む夢、未来への絶望。
そして、一転して極楽を思わせる様な「水車のある村」。
さらに、エンドタイトルのバックに流れるイポリット・イワーノフの『コーカサスの風景・第二楽章』
黒澤明ほどの大監督が、ただただ意味もなく、情感だけで、この様な創り方をするわけがありません。これは、「永遠の安息」を意味しています。
ちなみに、『コーカサスの風景』は、全四楽章から成り立っており、この第二楽章の題は「村にて」です。何となくニヤリとしてしまいますね。
そして、第四楽章「酋長の行進」あたりは、笠智衆扮する老人の踊りと重なります。おそらく『コーカサスの風景』という曲が「水車のある村」のイメージの元なのでしょう。
とまれ、これこそが黒澤明の理想郷(まほろば)であろうと思われるのです。
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次なる『八月の狂想曲』。
- これはまた、何たる凡庸な創り方なのでしょうか。
- 黒澤独特のダイナミズムは影も形もありません。
しかるに、この全編に流れる異様とも思えるu静けさ」は、ある連想をさせます。
「悟り」。
- そう『八月の狂想曲』は、「死を越えた悟り」の映画だったのです。
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そして、大問題の『まあだだよ』。
これほど酷評された黒澤映画はありません。
- 特に、松村達雄や、所ジョージのヘタさ加減といったら噴飯物です。松村達雄に至っては「よく今まで俳優をやってこれたな」と、言いたくなる様な超最低級の演技です。
「子供の学芸会並の映画」と評した人もおりました。
その通り。
- これは、「子供の学芸会」なのです。
『夢』で、死を恐怖し、死後の世界と極楽浄土を意識した黒澤は、『八月の狂想曲』で悟りを開き、そして、滅しました。
しかし、魂は転生し、子供の心に帰って創ったのが「子供の学芸会」である『まあだだよ』だったのです。
公開当時、評論家の淀川さん(私は、この人の評論法は好きではない)が、
「この映画を観て、おもわず泣いてしまいました」
と、言っているのを聞いて、その意味がよく分かりませんでした。
後に、黒澤明追悼番組の中で、最後の作品となった『まあだだよ』について、「泣けた」と、くり返し言っているのを見るに及び、ようやく、その意味が理解できました。
この老評論家は、同年代の友人の、おそらく最後の作品である事を、何故か本能的に悟ったのではないでしょうか。
そして、この「子供の学芸会」の様な作品が、巨人・黒澤明にとっては、「転生」の意味を含んでいた事を、感じとっていたのです。
だから、「泣けた」のです。
映画とは不思議なもので、死を感じさせる様な演出、演技が画面上に表れる事が、時たまあります。
公開当時、誰ひとりとして気にもとめていなかったのですが、黒澤明最後の三作品には、実は、そういう意味が込められていたのです。
98年10月脱稿
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