ブロックバスター『アルマゲドン』のコピーキャットが、『ディープ・インパクト』。
 これを日本語になおすと、超大作『アルマゲドン』の便乗作品が、『ディープ・インパクト』である。と、こうなってくる。

 ブロックバスターと言っても、往年のレスラー「ジョージ・ゴーデイエンコ」の必殺技ではありません。
 大金を掛けて大宣伝をして、ボックスオフィス(観客動員)が一位になるのがあたり前と、言う大話題作の事を言います。
 また、コピーキャットと言うのは、このブロックバスター製作情報を得て、それよりも先行封切りをすべく、短期間に作られた即席作品の事を言うのです。
 「何だ、パクリの事じゃあないか」と、思わないでください。
 コピーキャットとパクリは全然違います。
 そもそも「パクリ」とは、ずっと以前の作品を無許可でいただいてしまう事を言います。「盗作」とも言います。
 『大魔神』は、『巨人ゴーレム』の「パクリ」だと、言う訳です。
 そして、日本のこの類い疑問作はブロックバスターがない以上、コピーキャットは一作もなく、すべてが「パクリ」であると定義付けられます。
 まあ、「パクリ」「猿真似」の類いは日本古来の伝統文化なので、仕方ないですねえ。

 では、いかにしてコピーキャット『ディープ・インパクト』が誕生したのかを述べてみましょう。
 まず、『ディープ・インパクト』を製作したのは「ドリーム・ワークス」だと言う事です。
 この会社はスピルバーグが頭ひとつ抜けているものの、いわゆる「三頭政治」の形を取っています。
 スティーブン・スピルバーグ、ジェフリー・カッツェンバーグ、デビッド・ゲフインがそれです。
 その中のカッツェンバーグは、元ディズニープロのプロデューサーでした。
 94年に彼が製作した『美女と野獣』の大当たりで、息を吹き返したディズニープロの劇場用長編動画は以後快進撃を重ねて行き、カッツェンバーグ自身も幾つかのヒット作に恵まれた。
 しかし、カッツェンバーグのディズニープロにおける居心地は誠に悪かったのです。
 それは、ディズニーの直系ではなかった事もあるが、「作品が下劣である」とか「商業主義に走りすぎる」などは表向きの理由で、その真実は、アメリカ映画界おきまりの金銭問題がからんでいるらしい。
 元々ディズニープロと言うのは、表裏の顔が全然違う所として有名です。
 これは、ウォルトが生きていた頃からの宿命的な問題なのです。
 兎に角、「低賃金、重労働」という「タコ部屋」の様なシステムが全然変わっていない。だから、時々、内部で大騒動が起きたりするのです。

 余談ですが、『白雪姫』に登場する「七人の小人」は、ウォルト直下の七人の強力無比のアニメーターがモデルになっています。
 絵のヘタなウォルトに代わって、この七人がキャラクターを創造して行ったのです。
 そして、この難しい環境のディズニープロが、幾多の危機をのり越える事が出来たのは、大ワンマンのウォルトのおかげではなくて、ひとえに信用絶大なる兄、ロイの存在があればこそであった事も、付け加えておきましょう。

 ウォルトの兄、ロイは資金繰り、著作権の保護、配給会社との折衝に辣腕をふるい、彼こそが、ディズニー帝国を創り上げた、大功労者だったのです。
 やがて、神格化されたディズニー兄弟の死後は、内部と外部の入れ替わりがすさまじく、カッツェンバーグも外部から招かれたプロデューサーの独りでした。
 しかし、ディズニープロは、彼の安住の地とは言い難く、ケンカ別れの状態となってしまい、そして、接触したのがスピルバーグだったのです。
 元々「ディズニー大好き」と言うスピルバーグは、ディズニープロの内部事情はよく知っていたものの、カッツェンバーグと手を握ると言う事に関しては、もっと別の意味が有ったのです。
 それは、スピルバーグ長年の夢がかなうと言う事に他なりません。
 スピルバーグの最終の夢は、『キングコング』と『十戒』を創る事にある。
 『ジュラシック・パーク/ロスト・ワールド』は、スピルバーグ版『キングコング』と言える作品です。
 オープニング・タイトルのスコアからして、マックス・スタイナー作曲の33年版『キングコング』ともうそっくり。
 そして、『十戒』は動画で創る事を考えたのです。
 それはあたり前で、実写版『十戒』は、現在では製作不可能とも思えるからです。
 その結果として、動画の本家ディズニープロの力をもって創ろうと計画されたのが、『プリンス・オブ・エジプト』だったのです。
 一方、ディズニープロに対して、いまだ怨念覚めやらぬカッツェンバーグは、ディズニー直系の古株達をそそのかして、大量離脱を引き起こし、新会社を作らせてしまった。
 この新会社が、第一作として作ったのが『アナスターシャ』であり、第二作が前述の『プリンス・オブ・エジプト』と言うのが裏話なのです。

 さて、そうこうしている内に、ディズニープロで『アルマゲドン』製作の報が入って来ました。
 仇敵ディズニープロに泡を吹かせる為に、カッツェンバーグが取った次なる手段は、コピーキャットの製作でした。
 それに呼応してスピルバーグは、「女スピルバーグ」の異名をとるミミ・レダーを呼び寄せました。
 ミミ・レダーは、コピーキャットと言う事で、抵抗があったものの、内容を聞いて承知の返事をします。
 (1)監督はマイケル・ベイ
 (2)音楽は、トレーバー・ラビン
 (3)主演はブルース・ウィリスと、リブ・タイラーで、これが「親子」を演じる。
 ま、これだけ聞けば、「恐るるに足らず」と思って不思議はありません。少なくとも私なら、そう思ってしまう。
 「こりゃあ、やかましいだけの、たいした映画じゃないな」 
 なぜかと言うと、監督のマイケル・ベイは、元々、ロックのミュージックビデオを撮っていた人物だから、常にその様な感覚で映像を作ってしまう。
 また、音楽のトレーバー・ラビンは、「イエス」のメンバーで、『コン・エアー』を創った。
 そして、今回のサウンドトラックに参加しているのは、エアロ・スミスや、ボンジョビだ。このエアロ・スミスの縁からリブ・タイラーが出てくるのです。
 エアロ・スミスのメンバー、スティーブン・タイラーの娘がリブ・タイラーなのは承知の事実であるから、リブ・タイラーの引きでエアロ・スミスと、トレーバー・ラビンが出て来たのか、あるいは、その逆なのかはわからないが、「嗚呼、麗しきは親子愛」と、言う訳ですな。

 そして、笑えてしまうのは、主役が「ハリウッドのエロおやじ」こと、ブルース・ウィリス。
 この男の口元のいやらしさは、ミッキー・ロークと双璧で、ギンギラギンの「エロおやじ」そのものです。
 そして、そのブルース・ウィリスが、清純さのかけらもない「イケイケ姐ちゃん」のリブ・タイラーと親子を演じるとは…。
 ウ〜ン、こりゃ大変だ。まさしく、恥上最凶の親子ですなあ。
 スタッフを見ただけでこれ位の事が、すぐ分かるのだから、その内容を聞けば、おそらくミミ・レダーでなくても、吹き出してしまうでしょうね。
 石油採掘現場の荒くれ男たちが、地球の運命を握る?
 すごい!この恐るべき非現実。不条理さ。これこそがSFですな(な〜んちゃって)。
 この様な男達に、地球を救える訳ないでしょう。逆に壊しちゃいそうです。物語とは言え、よく地球は助かりましたと、感心する次第です。
 そして、ラストにはブルース・ウィリスの自己犠牲により危機回避。
 でもねえ、ブルース・ウィリスとリブ・タイラーでは、どう見ても感動しませんし、そもそも親子の設定に無理がありすぎます。いや、それとも「この親にして、この子あり」かなあ。

 その様な訳で、『アルマゲドン』は、見所と言えば、最初の10分間に凝縮された特撮だけだと言っても良いでしょう。

 「松田聖子が出ていた」
 そう、その様なシーンもありました。
 では、何故、松田聖子が出ているのか?それも書きましょう。

 実は、松田聖子は数年前にディズニープロと接触しておりまして、その関係で「チョイ役」で出させてもらったと言うのが真相なのです。
 この時の契約とは、98年10月発売以後のディズニーホームビデオに松田聖子が出て、自分の持ち歌を歌うと言う事です(世も末だな、こりゃあ)。
 正しくは、『わんわん物語』以後のホームビデオです。
 ディズニーでも、ビデオ販売促進の為、松田聖子を起用したのですが、これは子供の父母狙いで、悪趣味の極みです。
 その契約は、96年だと思いますが、彼女が「アメリカ映画界の大物プロデューサーを知っている関係で、主役級の役をもらった」と、大ボラを吹いていたのは、この契約時にディズニープロのプロデューサーの一人と会った、と言うだけの発展話だったのです。

 さて、以上のことをふまえて、『ディープ・インパクト』は製作されました。
 まず、『アルマゲドン』のロック調に対して、正統派の音楽にしました。
 これはジェームズ・ホーナーを起用。本来ならば、ここはジョン・ウイリアムスなのですが、彼はクラシック畑へと帰ってしまったので、スピルバーグの子分にあたるジェームズ・ホーナーと言うわけです。
 『ディープ・インパクト』は、監督が泣かせ所を心得ているミミ・レダーですから、さすがにうまい。「親子の別れとは、かくあるべし」と言う感じで、ロック野郎のマイケル・ベイでは歯が立ちません。
 出演者も、懐かしや、マクシミリアン・シエルとか、ロバート・デュエルですから本当に渋い。
 ところで、『アルマゲドン』は、その特撮以外に見せ場がないのかと言えば、はっきり申しまして、まるでありません。
 と、思っていたのですが、しかし、実はとんでもない隠し玉があったのです。
 それは、ナレーションです。
 私は、このナレーションは、正直言ってびっくりしました。
 抑揚をおさえたその声は、実に格調高く、真に画面とピッタリだったのです。
 決して良い声ではありませんが、その語り口は最上のものでした。
 その声の主とは、「チャールトン・ヘストン」だったのです。
 このヘストンのナレーションが『アルマゲドン』を支えていると言っても過言ではありません。それ程までに素晴らしいナレーションでした。
 おそらく、カッツェンバーグも、ミミ・ダレーもこれには「やられた」と思ったはずです。
 もし、VTRでご覧になる時は、ぜひ「字幕スーパー版」で見てください。

 さて、話題を変えます。
 日本では正月興業となった『ロスト・イン・スペース』(TV版『宇宙家族ロビンソン』が原作)ですが、妙な映画ですね。
 物語が、前半と後半に分かれていて、まるでインパクトが違うのですが、ひょっとして、別のスタッフが作ったんではないか、と思えてしまうのです。
 但し、前半は非常に良い出来です。
 ハイパーゲートを通ってアルファプライム(TV版ではアルファセンチュリーだった)に行く事は良いアイデアだし、太陽に突入しそうになるのを、ハイパードライブによる「スイングバイ航法」で切り抜ける等、「ウンウン」とうなずけますし、さらには、宇宙船内での大乱戦等々、本当に良く出来ています。
 ところが、後半になると見事なほど、失速してしまいます。
 タイムパラドックス云々はSF映画であるから「解釈」の問題でして、これはこれで良いのですが、「この様な形に脚本を作る必要があるのか?」と、素直に思ってしまいます。
 この事は、全編を通じての疑問「TV版『宇宙家族ロビンソン』を、どの様に解釈しているのか?」に直結してしまいます。
 クレジットタイトルにも、「アーウイン・アレン製作による、TV版が下敷きになっている」と、書いているじゃあ〜りませんか。
 確かに、司令官がマーク・ゴダート(TV版ウェスト少佐)であるとか、校長先生がジューン・ロックハート(後述)だったり、はたまたラスト近くに出る「フレンディ型」とも言えるロボットの上半身がTV版フライディ(ややこしいな)に変わっていたりで、TV版を意識しているのはわかります。
 また、宇宙グモがジュピター を襲うシーンは、「スウォーム」を思わせる等、言わんとする事はわかりますが、それならば、もう少し何とか成らぬものかと言いたくなってしまうのです。
 別にTV版と同じに創る必要はありませんが、「観ていて面白い」と言うあの最大の良さを極力ベースにすべきでした。

 では、何が変なのか?
 その最大の理由は、最重要登場人物「ドクター・スミス」役のミスキャストにあります。
 TV版では、とにかく、利己主義で、悪計ばかりめぐらしている、ズル賢い偏屈オヤジとして、描かれています。
 そして、その最大の特徴は「人殺しをやりそうで、やらない」と、言うことです。
 これを、誰が演じるのかと思ったら、「アッと驚く、ゲーリー・オールドマン」。
 これはもう大変な新解釈のドクター・スミスです。
 ゲーリー・オールドマンの現在のイメージは、ちょっとギャグの入った「冷血鬼」と、その様に固定されています。
 このあたりが、どうもひっかかってしまうのです。
 また、ラストで、見るもおぞましいクモ男になってしまうシーン等は、必要だったのでしょうか。疑問ですね。
 はっきりとは言えませんが、このシーンはたぶん、日本人スタッフが創ったものと思われます。
 理由はたった一言、「ヘタ」だからです。
 残念だけれど、美的センスの欠落したヘタなコンピューター合成は、大体日本人スタッフだと思えば、間違いないんだな、これが。

 TV版は、なんだかんだ言っても、製作アーウイン・アレン(TVドラマでは、他に『原子力潜水艦シー・ビュー号』『巨人の惑星』『タイム・トンネル』等を創った)、音楽ジョン・ウイリアムスだからすごい。

 配役にしても、ロビンソン博士役は『怪傑ゾロ』や『キャプテン・シンドバッド』のガイ・ウイリアムス(故人)で、その妻モーリン役が、そう、あのジューン・ロックハートなのです。
 『宇宙家族ロビンソン』では、老けてオバさんになっていましたが、根っからのTV人の彼女は、元来、非常に姿形の美しい女優で、良きアメリカを象徴する様なTV界の大スターでした。
 演じるのは、デビュー当時からずっと家庭夫人役、それもホームドラマと、もう判で押したようなものでした。
 ところが、これほど家庭夫人がはまる女優も珍しく、以後、この手の世界共通のイメージを作り上げ、日本のTV界にも多大の影響を与え、いまだにジューン・ロックハート以上の女優が出現していないと言う、正真正銘の大女優だったのです。
 さすがは、アーウイン・アレン。TVとは言え、その配役は実にツボを得ていたのです。
 しかるに、このたびの映画版の方は、ちょっとミスキャストが目立ちます。
 とても科学者には見えない、いつも同じ髪型のウイルアム・ハート、ヒステリーおばさんに描かれてしまったミミ・ロジャース等々です。
 かと思えば、「レイシー・シャベール」みたいな、ものすごい「ファニーフェイス」の有望株がいたりで、どうも一貫されていません。
 『ロスト・イン・スペース』は、難点が多いものの、前半から中ばに掛けての部分がものすごく良く出来ているので、まあ、合格点といたしましょう。
 本当に、後半の失速がなければ、良かったのですけれどもね。

 でも、なぜ失速してしまったのでしょうか?
 多分ですが、理由は二つです。
 一つは、TV版調にしようとして、失敗した(暗〜い話になっちゃた)。
 もう一つは、予算が足りなくなって、やっつけ仕事になってしまったのではないかと言う事です。

 昔、レイ・ハリーハウゼンの『シンドバッド・虎の眼大冒険(原題/アイ・オブ・ザ・タイガー)』と言う映画がありまして、この映画のラストは、本来、「穴居人」「剣歯虎」「黄金像ミナトン」の三大怪物入り乱れての、くんずほぐれつの大激闘(すごいですね)になる予定でした。
 でも、「ヒヒ」の特撮に力を入れ過ぎて、予算不足となり「穴居人」対「剣歯虎」の、な〜んだという戦いに代わってしまった、と言う事を思い出しました。
 ひょっとしたら、これと同じではないかと思うのです。
 「ブラープ」等と言う訳のわからないどうでも良い代物を出す位なら、ラストを充実させた方が良いと思うのですが、特撮の「ジム・ヘンソン工房」が、この類いの特撮を得意にしているので(『ベイブ』だとか)、「ブラープ」はどうしても出したかったのでしょう。

 なお、『シンドバッド・虎の眼大冒険』の、「黄金像ミナトン」に入っていた役者は、後に『スター・ウォーズ』で、チューバッカの中に入ることになりました事も、付け加えておきます。

 さて、最後に、98年度最高のSF映画を書いておきます。
 それは、『ガタカ』です。
 未来社会を描いたこのSFは、昔のドイツ映画『来るべき世界』を彷彿させるもので、見事としか言い様がありません。
 この映画は元々、上映館が少なく、不入りの為に、あっと言う間に興業打ち切りになる等、何となく『光る眼』を思い出してしまいました。
 この傑作SFを理解する為には、ある事項が頭に入っていなくてはなりません。
 それは、この映画の監督は三人いて、その筆頭は何とあのダニー・デビート(『バットマン・リターンズ』のペンギン)だと言う事です。
 この映画の全ては、この一点だと言っても過言ではないのです。
 どういう意味なのか、それは、宿題としておきましょう。
99年2月脱稿

(※本文中の敬称は略させていただきました)

著者紹介水野重康
49年、静岡県掛川市で100年以上続く医者の家に生まれる。
54年、『ゴジラ』を観て以後、映画にのめり込み、SFを中心として5000本近くの映画を観る事になる。
趣味を通じて、五味康祐氏、田山力哉氏、その他に師事する。
83年、生地に歯科医院を開業して現在に至る。

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