【 十戒フリークの著者が、三つの十戒を比較研究し、思いを熱く語ります 】


 『十戒』と聞いて、すぐに頭にうかぶのは「紅海を割る」と言う有名なシーンであり、特撮映画に興味を持つ人ならば、どこかで接していると言う映画です。


 この映画は今まで3回映画化されており、23年版、56年版、そしてアニメーションの『プリンス・オブ・エジプト』(イージプトと発音して下さい)があります。
 しかし、23年製作と言えば、何と大正12年。いくら私でも「リアルタイム」で見ているわけはありません。これは、後に国立近代美術館のフィルムセンターで観させていただきました。

 23年版『十戒』(23年版は『十誡』と書く)は、セシル・B・デミル監督によりますが、この後にパラマウントの暴君と呼ばれたデミルと言う人物は、一説には「ハリウッドの開祖」と言われている人物です。

 ハリウッドと言うと、現在では映画の聖地と言われていますが、元々のアメリカ映画は所定まらずの種種の場所で製作、撮影されていたものを、ネスター社のアル・クリスティと言う人物が、カリフォルニアのロサンゼルス郊外にあるハリウッドを撮影所の候補地として定めたのが11年の10月。
 ここから、ハリウッドの第一歩が踏み出された、と言う事になっています。
 そして、その第一作だデミル監督による西部劇『スコウマン』だとされているのですが、このあたりは諸説があり、定かではありません。

 『カルメン』『ジャン・ダーク』(ジャンヌ・ダルクではない)等の人気作を作っていたデミルは、23年に『十誡』を作りました。
 この映画は二部作の形をとり、第一部は「古代編」であり、「モーゼ」と「ラメシスU世」の対決を描いており、第二部は「現代編」と言われているものです。
 第二部「現代編」は、まず日の目を見ることはないので、資料を抜き出し加筆して書いてみる事にしました。

 「モーゼ」と「十戒」の物語を母に聞かされて育ったユダヤ人大工のマクタビッシュ兄弟。
 兄のジョンは正直者、弟のダンは多少の不正をしても金銭を得ようとする人間であった。
 ダンはメリーと結婚し、やがて、建築業者としての地位を確立したが、兄のジョンは一介の大工にすぎなかった。
 しかし、ダンはサリーと言う妖婦に惑わされ、ある教会の建築を引き受けた時、セメントの量をごまかして工事を行ってしまう。
 やがて、神罰とも言える事故が起こり、それを機に巨大な教会は崩壊してしまい、ダンとそそのかした悪人達も息絶えてしまう(これがすごいシーンで、後の『サムソンとデリラ』のダゴン神殿崩壊シーンを思わせます)。
 生き残ったダンは、不正と責任を追及され、行き詰まってしまい妖婦サリーを殺して逃げる途中で溺れ死んでしまう。
 未亡人となった妻メリーはダンの兄ジョンになぐさめられ、神への信仰を求め、そこで光明を見いだすのであった。

 以上のような内容なのですが、この23年版を始まりとして、デミルは以後十八番とも言える豪華スペクタクル映画を創って行くのです。

 さて、この『十誡』のリメーク版が56年製作(日本公開58年)であり、ご存じのように「紅海を割る」と言う空前のシーンをメインにすえた「古代編」だけの物語でした。
 デミルはこのリメーク版を創るにあたり、「モーゼ」役にはまだかけ出しのチャールトン・ヘストンを大抜擢しましたが、これが大当たり。実に堂々とした指導者・偉大なるモーゼを見事に演じ切ってしまいました。
 元来、デミルと言う人物は、勝負を掛けるような作品に、時折、無名の新人を登用するなど、実に思い切った手を打つ人物でもあったのです(音楽もエルマー・バーンスタインを周囲の反対を押し切って起用し、素晴らしいスコアを書かせました)。
 配役にも、当代一の悪役、エドワード・G・ロビンソンを起用し、画面を引き締めています。この役はピーター・ユステイノフでも良かったかと思いましたが、彼はこの時『ベン・ハー』で、ローマ皇帝を役を演じておりました。

 ところで、この『十戒』には配役ミスがあります。
 それは美姫ネフエレテイリイを演じたアン・バクスターです。
 この役は、私ならば、イタリア系の女優・ジーナ・ロロブリジダか、シルバーナ・マンガーノを押しました。
 しかし、当時は種種の事情で困難な事だったのかも知れません。
 ジーナ・ロロブリジダは、ほぼ同時期に創られた『ソロモンとシバの女王』で、シバの女王を演じておりました。
 シルバーナ・マンガーノもこれまた同じような時期に『ユリシーズ』に出演するなどして、共にお色気満点と言う、当代きっての美人女優でした(『ユリシーズ』のマンガーノは、もう素晴らしいの一言です)。
 この二人に比べれば、いくら人気があると言っても、アン・バクスターでは落ちます。
 しかし、ネフエレテイリイが柳眉を逆立てるシーン等は、これ正にアン・バクスターの独壇場でした。
 ですが、やはり私はネフエレテイリイ役には、このイタリアの誇る二大美人女優のどちらかを使って欲しかったのです。
 ジーナ・ロロブリジダについては、本が一冊出来てしまいますので割愛させていただきますが、この当時の映画界には「世界三大美女」と言う存在がありました。
 一人は、エリザベス・テイーラー。
 もう一人は、フランスのダニエル・ダリユー。
 そして、もう一人がジーナ・ロロブリジダでした。 
 シルバーナ・マンガーノは、元々、「ミス・ローマ」で「イタリアンネオリアリズム」の傑作『にがい米』でデビューし、後に大プロデューサーのラウレンテイスの嫁さんになりました。
 後年、『アポロンの地獄』『テオレマ』を創った鬼才パゾリーニの作品に好んで出るようになり(なお、パゾリーニは、後に自殺しました)、あのビスコンティの大傑作『ベニスに死す』ではビヨルン・アンドルセンの母親役で出ていたりしました。

 話は前後しますが、
「なぜ、アン・バクスターではだめか」
と、申しますと、一言で言って役が、ネフエレテイリイだからです。
 一般的に「エジプト一の美女は誰か?」と言う質問に、多くの人は「クレオパトラ」と答えると思いますが、それは違います。
 その正解は「ネフエレテイリイ」です。
 ネフエレテイリイは元々「ラムセスU世」の父である「セトT世」の女だったのですが、そのあまりの美しさに息子のラムセスU世(後の大皇帝ラムセスU世の事で、『十戒』のラメシスU世と同一人物)が自分の妻にしてしまったと言う史実があるのです(映画はこのあたりが史実と異なっています)。
 つまり、ネフエレテイリイはとてつもない美女であり、その様な女優でないとだめなのです(ただし、歴史上、ネフエレテイリイの名前は二人おりまして、この場合はラムセス 世の妻の方を指します)。
 アン・バクスターはちょいと太めなので、もう一つ役に合っていないのではないかと思います。
 では、なぜアン・バクスターかと言えば、はっきり言ってデミルの好みのタイプの女優だからです。
 どう言うわけか、デミルはヘデイ・ラマーやベティ・ハットンの様な俗に言う「バンプ系」の女優が好みでしてアン・バクスターもこの延長線上にあるからです。

 ところで、またまたどう言うわけか、私はこの56年版『十戒』が大好きでして、確実に200回以上映画館で見ているという、自称「日本一の『十戒』フリーク」でもあります。
 観るたびに新しい発見があり、無人島で観る事の出来る、たった一本の映画には『十戒』とためらわずに答えてしまいます。
 ただし、お断りしなくてはいけないのは『十戒』は映像的には決して優れた映画ではありません。
「舞台劇の様でセットが分かってしまう」とか、「説教臭くてどうしようもない」と思う人も数多くいます。
 しかし、映画の本質「活動大写真」「デイズ・イズ・エンタテインメント」と言う事を考えると、これはもう、空前の面白さを凝縮したような映画なのです。
 「紅海を割る」「シナイ山で十戒を授かる」と言う二つのクライマックスを使う手法は近頃、頻繁に用いられる手法の一つで(元来、クライマックスは一つだけ)この原典はたぶん56年版『十戒』だと思われます。

 その他にも、近頃、日本製アニメやコミックスで一般化されている「神=光」と言う図式をおそらくカラーで最初に具体化した映画であると思われます。
 シナイ山で「燃える柴」を「モーゼ」が観るシーンにこれは表れています。
 私は小学生の頃、このシーンを観て「これが神のイメージなのか」と、強く心に残ったシーンでもあります。
 さらには「神の御名前を示して下さい」と、モーゼが頼むとその返って来た答えは「我は在りて在るもの・アイアムイズアイアム」。
 もうこれは完全に唯物論の世界です。
 つまり、神自身が「存在」だと言っているのです。
「存在」とは我々を包むものです。
 そう、「神」は「宇宙」だと言っているのです。
 何と言うものすごいシーンでありましょうか。
 そして、映画のラストには実にとんでもないシーンが用意されています。

 神の御前で悪業を繰り広げた「悪しき者達」を根絶やしにした荒神エホバは、さらに40年間もイスラエルの民を砂漠に放浪させた後でヨルダン川の彼方をモーゼに示し、そこにイスラエルの民を導かせますが、ただ一人、モーゼだけはネボの山に残る事になります。
 これは、
「神は私の不服従の心をお怒りになり、約束の土地(カナン)へ渡る事は出来ないと言われた」
と、モーゼに言わせるシーンです。
 この言葉は、劇中、しばしば登場する「真の神ならば、なぜ、奴隷を作ったのか?」と言うセリフの整理言葉なのです。
 そして、モーゼの眼前には、今まさにヨルダン川を渡ろうとするイスラエルの民の姿。しかし、そこは邪神「ダゴン」を崇拝するペリシテ人の土地なのです。
 そして、物語は『サムソンとデリラ』へと引き継がれて行きます。
 さらに、ラストの言葉「行け!!全ての土地、全ての民に自由を宣言せよ」考えてみると、これはものすごいセリフです。
 どこの土地へ入り、何をしようと自由なのですから(ただし、歯止めに「十戒」がありますが…)。
 このセリフこそが3000年以来、今に至るイスラエル問題の根本なのです。
 かように、そのセリフひとつひとつに含蓄のある映画でありますが、この映画『十戒』の中には、「私だけが知っている」と言う場面がありますので書いておきましょう。
 それは、赤子時代のモーゼ、劇中では「インフアント・モーゼ」と言われているもので、これを演じているのは、何とフレイザー・ヘストンでして、驚くなかれ、チャールトン・ヘストンの長男です。誕生日は55年2月12日です(どうでも良いか)。
 フレイザー・ヘストンは、今では監督業をやっていますが、あまりうまい演出ではありませんで、いつも父のチャールトン・ヘストンが手助けして、出演していると言う、はなはだ情けない監督さんでもあります。
 なお、「インファント」と言う言葉は「妖精」と言う意味でして、転じて生まれたての赤子を指します。
 「インファント治療」と言うのがありますが、これはその様な年齢の子供を対象とする治療の事であります。

 三つの『十戒』の最後は、アニメ『プリンス・オブ・エジプト』です。
 これはアニメとしては驚異的な仕上がりでして、もはや、アニメとは言えない様なアニメーションの仕上がっています。
 しかし、話の内容はと申しますと、「ガクッ」と来て立ち上がれなくなってしまいます。
 まず、「モーゼとラメシスU世」との関係に比重を置き過ぎた点。
 次に前述の美姫ネフエレテイリイが登場しない点。
 モーゼが若すぎるイメージで全然頼りにならない様に見えてしまう等々の点があげられます。
 それよりも何よりも、シナイ山で荒神エホバがモーゼに言う言葉です。
 「神はモーゼに言われた、行け、そしてエジプトへもどれ(ゴウ・リターン・トウ・ザ・イージプト)」。
 つまり「GO」に比重が置かれています。
 これをアニメ版では、「さあ、共に行こう(レッツ・ゴウ)」。
 まあ、何と軽々しい神でありましょうか。
 これでは暴走族の兄ちゃんとあまり変わりはありせん。
 元々、アニメ『プリンス・オブ・エジプト』は、それほどストーリーを重視しているとは考えられません。
 それは、『美女と野獣』以後のアニメを観れば一目瞭然です。
 『ノートルダムの鐘』『アナスターシヤ』『キャメロット』、どれもこれもあまりにも原作(以前に映画化された作品)とかけ離れていて泣けて来そうです(ウウウ……)。
 ただ、『プリンス・オブ・エジプト』はモーゼの兄・アロンからヒントを得ているのではないかと思われるのです(優柔不断のモーゼに対し知恵者で切れ者の兄アロンが大声で叱咤するのが見せ場)。
 そうなれば56年版『十戒』は関係ないですからね。
 その様な訳で『十戒』ファンの神経を逆なでする様な脚本の『プリンス・オブ・エジプト』ですが、それはそれでどうにも分からないのが背後でチラホラ見え隠れするスピルバーグな影です。

 確かに、スピルバーグは製作スタッフにはその名を連ねてはいませんが、元来、「十戒大好き」と言うスピルバーグの肝入りで日の目を見た様なアニメーションなので、この様なわけのわからない脚本でOKが出たのは実に不思議です。
 スピルバーグはユダヤ系の人間で厚い信仰をしている人物なのです。
 それを考えますと、モーゼや荒神エホバの描き方がどうも解せません。
 はっきり申しまして、この『プリンス・オブ・エジプト』は、以前の『十戒』の面白さの「ツボ」を外してしまっています。

 しかし、アニメーション自体は驚異的な仕上がり具合ですので、それ自体の目的は達成されたと思いますので、これはこれで、「新解釈の十戒」と言う形でとどめておきたいと思います。
      1999年11月脱稿 

(※本文中の敬称は略させていただきました)

著者紹介水野重康
49年、静岡県掛川市で100年以上続く医者の家に生まれる。
54年、『ゴジラ』を観て以後、映画にのめり込み、SFを中心として5000本近くの映画を観る事になる。
趣味を通じて、五味康祐氏、田山力哉氏、その他に師事する。
83年、生地に歯科医院を開業して現在に至る。

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