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いなほ随想

第三集


日本語と漢字
~漢字は我われ日本人に何をもたらしたか?~

藤田昌熙(38文)

★以下は大学同期仲間で毎月開催している勉強会の10月案内状です。今回は、久しぶりに私が「日本語と漢字」のテーマで講師を引き受けることにしました。「日本語と漢字」、誰でも知っていることだけに話すとなるとちょっと難しいテーマですが、日頃考えていることをこの際全部吐き出し、皆と議論してみたいと思います。

★ホームページ管理人の松谷さんの計らいで当スペースでも披露させていただくことになりました。ホームページ閲覧者の皆様にも、日頃お考えのこと、「是非ここを議論せよ」ということがありましたら、ご教示頂ければさいわいです。
                                                          


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 「59MEETING」10月例会ご案内

日本語と漢字

  ~漢字は我われ日本人に何をもたらしたか?~

報 告:藤田 昌熙

[報告者からの一言]

★普段何気なく使っている漢字。今や誰もが日本語として疑いもなく使っており、これがかつて大陸から伝わった言語・文化だと意識することは少ない。しかし、よく考えてみると、漢字を取り入れたことにより我われ日本人は、世界でもまれにみる複雑な文字形態を発達させてきました。漢字、カタカナ、ひらがなの併用です。一言語で3種類(現在では、アルファベットを加え4種類)の文字を使っている国は、日本しかありません。

★何故、このようなことになったか?それは漢字が外国語だったからです。外国語である漢字だけでは日本語は表現できません。そこで発明されたのが「カタカナ」であり、「ひらかな」でした。日本語を複雑にした最大の要因は漢字です。そのことは、隣国中国でもよくわかっているらしく、かつて日中国交回復交渉で北京に赴いた田中角栄首相が、「先の大戦でご迷惑をおかけしました」と謝罪した時、毛沢東が、「いや、こちらこそ漢字でご迷惑をおかけしました」と言ったとか。

★しかし、もし大陸から漢字が入って来なかったら、我が国は、言葉(日本語)はあっても文字を持てないままだったかもしれません。或いは、その後独自の文字を創り出したかもしれないが、それには相当の年月を要したに違いない。漢字に感謝する所以です。

★というわけで、今回は、誰でも知っている“漢字”について、その功罪を見直し、併せて、戦後紆余曲折した「当用漢字」、「教育漢字」、「漢字制限」、「ローマ字運動」・・・などについて皆で議論し、これからの「国語教育」のあり方を考えてみたいと思います。因みに、当日議論したい項目・内容を列記しますと、

●漢字がもたらしたメリット:

・日本語に「文字」をもたらした。
・日本語の語彙を増やし、豊かにした。
・「カタカナ」、「ひらがな」を産み出す要因になった。
・表意文字「漢字」による文化向上。

●漢字がもたらしたマイナス要因:

・「和語(日本語)」の発達を阻害した。
・「漢字」は日本語とまったく構造が異なる。
・日本語を複雑にした(漢字、カタカナ、ひらがな)。
・学習時間の長期化。

●戦後の「漢字制限」の背景と問題点。

●「ローマ字運動」の背景と問題点。

●「漢字の国」中国の悩み(翻弄される翻訳局)

●「ハングル」に切り替えた韓国・北朝鮮の悩み。

●「ローマ字」に切り替えたベトナムの悩み。

●日本語の現状と今後の課題。

なお、上記に関連し参考にした本は以下のとおりです。

・高島俊男著「漢字と日本人」(文藝春秋社)
・三浦つとむ著「日本語はどういう言語か」(講談社)
・鈴木孝夫著「ことばの人間学」(新潮社)
・大野  晋著「日本語をさかのぼる」(岩波新書)
  
         

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 「59MEETING」10月例会リポート
 日本語と漢字
~漢字は我われ日本人に何をもたらしたか?~

                          
・日 時:2010年10月7日(木)午後6時~午後9時

・場 所:市ヶ谷駅前「九龍飯店」

・出 席:板尾由美子・植田厚生・奥原一好・神山和夫・斎藤悦子
      佐瀬守良・高橋幸雄・田代勝彦・津村和宏・藤田昌熙  

・テーマ:「日本語と漢字」~漢字は我われ日本人に何をもたらしたか?~

・報 告:藤田 昌熙

・はじめに

★普段何気なく使っている漢字。今や誰もが日本語として疑いもなく使っており、これがかつて大陸から伝わった言語・文化だと意識することは少ない。しかし、よく考えてみると、漢字を取り入れたことにより我われ日本人は、世界でもまれにみる複雑な文字形態を発達させてきました。漢字、カタカナ、ひらがなの併用です。一言語で3種類(現在では、アルファベットを加え4種類)の文字を使っている国は、日本しかありません。

★何故、このようなことになったか? それは漢字が外国語だったからです。外国語である漢字だけでは日本語は表現できません。そこで発明されたのが「カタカナ」であり、「ひらかな」です。このように漢字が入ってきて日本語は複雑になりましたが、もし大陸から漢字が入って来なかったら、我が国は文字を持てないままだったかもしれないし。或いはその後独自の文字を創り出せたとしても、それには相当の年月を要したに違いありません。

★というわけで、今回は、誰でも知っている“漢字”について、その特色、メリット、デメリット、併せて戦後紆余曲折した「当用漢字」、「常用漢字」、「漢字制限」、「ローマ字運動」などについて考えてみたいと思います。

・漢字の導入と「カタカナ」、「ひらがな」の創出

★まず、認識しておきたいのは、我われ日本人が縄文時代(BC1万年~BC300年頃)にはまだ文字を持っていなかったこと。弥生時代、4世紀頃から朝鮮半島を通じて(後には直接中国大陸から直接)“漢字”が流入。最初はこの漢字を音読みすることで日本語を表記していました(所謂、万葉がな)。その後、独自に「カタカナ」、「ひらがな」を創り出し、この音・訓併用により漢字を日本語に取り込んだ(例:「山(やま)」)、「川(かわ)」)上、日本語を自在に表記出来るようになりました。

漢字から平仮名への変化 漢字から片仮名への変化
(wikipediaから転借)

・漢字のメリットとデメリット

 ★このため日本語の表記は「漢字」+「カタカナ」+「ひらがな」と複雑になりましたが、一方、豊富な語彙とさまざまな表現が出来るようになり、日本語を豊かにし、独自の文学、芸術、科学、文化を発達させてきました。但し、問題もたくさんあります。漢字には同じ発音で意味の違う文字(同音異義語)が多く、話していて混乱をまねくことがあり(例:「それは家庭の問題だ」と「それは仮定の問題だ」)、このため無意識に文字(漢字)を念頭に置きながら話す。本来、「言葉があって文字が出来る」筈が、「文字を想定しながら話す」という逆転現象が起こります。

★また、漢字は複雑な上、数が多く、習得するのに時間がかかるので、つねに「漢字制限」や「略字化」、さらには「漢字離れ、漢字廃止」の動きが出てきます。現に、隣の韓国や北朝鮮では「ハングル」を採用し「漢字離れ」が進んでおり、ベトナムは「アルファベッド」に移行。本家の中国ですら「簡体字」を推進、「ローマ字」の併用が進んでいます。わが国においても同様で、「常用漢字」など漢字制限が推進され、一時は「ローマ字教育」なども盛んに行われました。

・漢字の将来

 ★最近、いくつかの会社で「社内では英語を使う」と決定が下され。話題になりました。 「楽天」に勤務する私の知り合いなど「会議も英語で、大変です」とこぼしていました。漢字については、「こんな複雑な文字には将来性がない」と悲観的な見方がある一方、「一目で意味が分かり、造形的にもすぐれている」と積極的に評価する見方もあります。どちらにも一理ありますが、「文字は文化」、漢字のすぐれた点は大いに評価すべきではないでしょうか。

・おわりに

★今回、 「日本語と漢字」と題して報告させて頂いたところ、地味なテーマにも関わらず皆さんに熱心に聴いて頂き、報告後の質疑応答、ディスカッションも活発、有意義な時間となりました。但し、なにぶん時間が少なく、その上、漢字についてはメリットとデメリットが交錯、また近年日本語の変化も大きく、そのため今回提起した「漢字」に関するさまざまな問題点、「ローマ字化」問題、同じ漢字文化圏中国・韓国・北朝鮮・ベトナムにおける漢字離れ(又は略字化)の問題点・・・等などについてより突っ込んだ議論にならなかったことはやや悔やまれるところです。

★しかし、皆様に「漢字」を取り入れて以降の日本語の変遷を知って頂き、いろいろと活発に議論できたことは大きな収穫であったと思います。短い時間で結論の出せるテーマでなかっただけに、いつか又機会を頂き、次には「これからの日本語のあり方」、「漢字を排した近隣諸国との関係」・・・等について話し合えればさいわいです。

・「59MEETING」10月例会資料

 ●日本語の特色:

 ・日本語は、主語+目的語+動詞(私は学校へ行く)。
・母音(あ・い・う・え・お)、子音が少ない。
・漢字+ひらがな+カタカナ+アルファベッド
・漢字に同音異義語が多い。

●漢語(漢字)の特色:

・漢語は、主語+動詞+目的語(我去学校)。
・母音(a,o,e,i,u)+子音が多い。
・一語完結(去、来、走、見、動・・・)。
・表意文字が多く(山・川・草・木・・・)、造語が容易・豊富。
・声調(四声)があり、原則として同音異義語はない。

●漢字がもたらしたメリット:

・日本語に「文字」をもたらした。
・日本語の語彙を増やし、豊かにした。
・「カタカナ」、「ひらがな」を産み出す要因になった。
・表意文字「漢字」による文化向上。
・高い文化性(19世紀中葉、植民地になるのを防いだ?)

●漢字がもたらしたマイナス要因:

・「和語(日本語)」の発達を阻害した。
・「漢字」は日本語とまったく構造が異なる。
・日本語を複雑にした(漢字、カタカナ、ひらがな)。
・同音異義語による混乱。
・長期の学習時間(読み・書き)。

●同音異義語:

★日本では、漢字の同音異議が多くて苦労する。
(例)小・商・章・省・賞・症・相・証・生・将・勝・称・性・招・衝・請・翔・紹・昌・尚・匠・奨・渉・祥・娼・廠・床・哨・消・正・升・・・。「貴社の記者は汽車で帰社した」・・・等など。

●「漢字の国」中国の悩み(翻弄される翻訳局):

★一方、カタカナ、ひらがなのない中国では、すべて漢字であり、新しいことばに対していちいち造語しなければならず、翻訳専門の役所を設けて対応しているが、グローバル時代、今や対応に苦慮している。但し、傑作もある~(例)「口可口楽」(コカコーラ)、「電脳」(コンピュータ)、「人民網」(ネット通信)など。

●「ハングル」に切り替えた韓国・北朝鮮、「ローマ字」に切り替えたベトナムの悩み:

★漢字をやめた韓国、ベトナムでは、ハングル、ローマ字だけではすぐ意味がわからないことが多い~(例)ハングル、「スソ」では何のことかわからないが、「水素」ならわかりやすい。 

●評判の悪かった「ローマ字」推進: 

★戦後、我が国でも小学校で「ローマ字」の授業があったが、漢字の入らない文は内容が理解し辛く、あまり普及しなかった~(例) KYOU WA IITENKI DESU。

●漢字を除いた日本語教育は・・・:

★外国での日本語教育では、漢字は難しいのでカタカナとひらがなで教えるケースが多いが、表意文字でないので内容がつかみ難い(これはローマ字も同じ)。

●日本語と漢字~今後の課題とあるべき方向(まとめ)

・問題点は多いが、日本語から漢字は外せない。
・但し、昔からの日本語に無理に漢字をあてはめる必要はない。
・ローマ字化は不要。・戦後進めてきた「漢字制限」は再検討すべき。・カタカナの氾濫は、日本語を弱体化する。

(参考)

 ●万葉がな

如葦牙因萌騰之物爾成神名、宇摩志阿斯可備比古遅神・・・(「古事記」創世の条)
(葦かびのごと、萌えあがる物によりて成れる神の名、ウマシアシカビヒコヂの神)

●平がなのもと 

あ(安)、い(以)、う(宇)、え(恵)、お(於)、か(加)、き(幾)、く(久)、け(計)、こ(己)

●片かなのもと 

ア(阿)、イ(伊)、ウ(宇)、エ(江)、オ(於)、カ(加)、キ(幾)、ク(久)、ケ(介)、コ(己)

●和製の漢字

榊(さかき)、辻(つじ)、峠(とうげ)、裃(かみしも)、丼(どんぶり)、躾(しつけ)

●日本語にとけこんだ漢語

門、段、縁、肉、茶、菊、竹、銭、天、地、恋、粋、精、念、恥、誇、根、勘、相(さが)

●漢字の意味の転用(カッコ内が漢語の意味)

遠慮(遠い先の心配)、迷惑(迷い戸惑う)、稽古(古い時代を思い出す)、大丈夫(一人前の立派な男)、留守(留まって城を守る)、利口(口の上手な者)、熱中(いらいらする)

●明治時代の新造語漢字

経済、哲学、汽車、汽船、洋服、電話、商法、消費、貿易、芸術、数学、学術、地理、天文、芸術、心理、物理、現象、立法、行政、実験、観察、科学、医学、概念・・・

(参考書籍)

・高島俊男著「漢字と日本人」(文藝春秋社)
・三浦つとむ著「日本語はどういう言語か」(講談社)
・鈴木孝夫著「ことばの人間学」(新潮社)
・大野  晋著「日本語をさかのぼる」(岩波新書)
・大島正二著「漢字伝来」(岩波書店)
・   〃   「漢字と中国人」(岩波書店)
・山口仲美著「日本語の歴史」(岩波書店)
・李  寧熙著「日本語の真相」(文藝春秋社)
・石川九楊著「日本語論」(青灯社)
・   〃   「二重言語国家・日本の歴史」(青灯社)
・山口謡司著「ん」(新潮社)
・水村美苗著「日本語がほろびるとき」
・鈴木孝夫著「日本語は国際語になりうるか」(講談社)
・ドナルド・キーン著「日本語の美」(中央公論社)
・板坂 元著「日本語横丁」(講談社)
・川本茂雄著「ことばとこころ」(岩波書店)
・藤堂明保著「漢字の過去と未来」(岩波書店)
・林   望著「日本語は死にかかっている」(NTT出版)
・大野  晋著「この素晴らしい国語」(福武書店)


                         「日本語と漢字」~皆様からのメール

★普段何気なく「日本語と漢字」について話すことになり、何を、どのように話したらよいか、皆さんからヒントが頂けないか・・・とメールしたところ、示唆に富んだ多くの返信を頂戴しました。(藤田昌煕)

 (順不同・敬称略)

◆李 寧熙著『日本語の真相』、『もう一つの万葉集』について

「日本語と漢字」というテーマに関して、作家の李 寧熙(イ ヨンヒ)氏が『日本語の真相』(文藝春秋1991年刊)の中でつぎのように述べています。

 「古代韓国語が古代日本語になり変っていった。日本語の原形を調べると、韓国語が出て くる。万葉集や『古事記』、『日本書紀』、『風土記』が書かれた頃の言葉を洗い出すと、 それが韓国語。7世紀~8世紀に書かれた文献で日本語としても漢文としても読めないとき、それは古代韓国語を表記したものである可能性が高い」

 なお、彼女は『もう一つの万葉集』(文藝春秋1989年刊)の中で、「万葉集はそのほとんどが古代韓国語で詠まれている」と断定しています。 (大木 壯次)

◆漢字の制約は、日本人の劣化をもたらしている?

 おもしろいテーマに挑戦していらっしゃいますね。英語を翻訳する場合、できるだけ漢字を使わず、ひらがな、つまり大和言葉で表現すると、意味が通じるという体験を皆さん、お持ちと思います。そのあたりに日本語の秘密がひそんでいるように思います。漢字とカタカナ、ひらがなを使いこなすことで、日本人独特の感性が養われたようです。韓国、ベトナムなど が漢字を失ったことによるマイナスは言うまでもありません。

以下、大学の講義で使ったものや、最近の興味深い本をいくつか、ご参考までに。

・『日本語の正体』(三五館) 著者は韓国人の言語学者。405年に来日した王仁が漢字の読み下し文を日本にもたらした。た、今の日本語の構成はかつての百済語に近い、といった論旨です。

・書家の石川九楊の日本語論もおもしろいです。漢字から片仮名、ひらがなを生みだした ところに、日本人の文化の受容方式の特徴が際立ってうかがえると指摘。

 それから、表意文字という視点から言えば、IT化が進む中で、ものを考えない人が増えて きているという状況にかんがみ――思考パターンの一つとして、日本人は漢字をビジュアル にとらえる、つまり、思考を伴って文字を見ているので、単純なアルファベットでしか伝達できない国の人々に比べ、頭脳の優秀さを育むことにつながっているという、議論もしてほしいところです。漢字の数を制約している国語政策は日本人の劣化をもたらしているという議論 にもつながるでしょう。 (桐山 勝)

◆高島俊男さんの「漢字と日本人」は、まさに“目からうろこ”でした。

私も、「日本語と漢字」にはそれなりの興味を持って、何冊かの本を読み漁りました。その中で、特に高島俊男さんの「漢字と日本人」は、それまで抱いていた漢字に対する私の思い(疑問)に見事に応えてくれた内容で、まさに「目からうろこ」の思いでした。他に、「漢字伝来」(大島正二著、岩波新書)、「日本語の歴史」(山口仲美著、岩波新書)なども、漢字との出会いのあたりに触れていて面白かった。

高島さんの書にもありますが、日本語が最初に出会った文字が漢字でなくアルファベット(例えば英語)であったらどうだったろう、と想像するのも楽しいものです。最初に出会ったのが漢字でなく表音文字であったとしたら、その後の日本語の発達はどうなっていったのか、想像は尽きません。 (荻野 滋生)

◆大野 晋先生が指導教授。

 今回の話題は、私よりも妻の方が関心があるのではないかと思います。参考書とし挙げられている大野晋先生は指導教授で、懐かしい思いもあるとか。  (山本 興一)

◆アメリカ人に対する日本語レッスンでも、やはり漢字を教えるべき。

 「日本語と漢字」に関して、最近感じていることをお伝えしたいと思います。 

 1.私は、現在、当地シンシナチ(オハイオ州)のInternational Language Schoolでアメリカ人 エンジニアに日本語とビジネスカルチャな  どをマンツーマンで、週2回(1回2時間)教えて います。 

 2.テキストは、学校側から支給された 「Japanese for Busy People」(國際日本語普及協会版)を使用。テキストに従い、まず「Hirag  ana(ひらがな)」、「Katakana(カタカナ)」の発音を教えます。また書き方も教え、宿題として自宅で練習させます。

 3.テキストの各レッスンの日本語文章は、ひらがな とカタカナで構成。その文章を、外国人 が発音しみやすいようにローマ字でも記  載されています。

 4.生徒が日本語を読む発音は、ひとつ一つの単語の意味を把握しながら読むのではなく、極めて平坦になります。そして、教える私   にとっても、ひらがなのみの文章を読むのが、 時折、難解に思う時があります。

 5.この私の経験から、私は、アメリカ人に対する日本語レッスンで、ひらがな、カタカナ、ローマ字のみならず、やはり漢字も教えるべきであると思いました。

 6.しかし、漢字には訓読、音読とあり、覚えるのも、また教えるのも難しいです。アメリカ人に、日本の小学校で学ぶ常用漢字の多いことを説明すると、驚いていました。

 7.とにかく日本人にとって、ひらがな、カタカナ、漢字の伝統文化の下で、国際化の波を受け、英語や増える新しい単語を覚えることは、大変な努力、時間を要しますので、次の世代に 向けて何か合理的な方法がないものかと考えます。  (伊藤 正彦)

◆水村美苗の「日本語がほろびるとき」を読んで・・・

今回の「日本語と漢字」は、大変勉強になりました。水村美苗の「日本語がほろびるとき」を読んでいろいろ感じましたが、漢字と日本語についても、考えると難しいです。 スペイン留学から帰ってきた孫が、スペインで一緒だった中国人学生と文通しています。スペイン語で往復しているのですが、宛名の名前は漢字で書いてきます。その漢字の上手 なこと! やはり、日本の文字は中国から頂いたということを実感させられます。   (保谷 裕子)

◆なんと日本語の複雑なことか!

おもしろいメールをありがとうございました。最近、息子に日本語を英語に訳してもらう際によく思うことは、なんと日本語の複雑なことか!ということ。英語に訳すと、それは簡単な文章になってしまいますよね。難しく考えることはないのね・・・と思うのですが、簡単な文章が日本人には難しく・・・。主語を省くのも日本人くらいだとか?  日本人はこだわりが強いからこうなったような気がします。

もともとの国の言葉を重視する? からなのか、外来語も中国のように漢字にしてしまって独自の言葉を作ればいいものの、何かそれではニュアンスが違う気がして、そのままの言葉をカタカナにする。これって、パリで「かわいい」は「かわいい」でなくてはニュアンスが伝わらないのと同じで、こういうところにこだわる。

話は飛びますが、だから日本食もおいしいんだと。先日、パリ出張で、今話題の一つ星レストランに行ったのですが、これがまるで日本食。食材を生かし、味付けはあくまでもシンプルに・・・。星が付けば付くほど“日本食化”していっているような気がします。最近、星付きのレストランには、必ず日本人がいるとか。

でも、少し前までは、なにもわからない日本人が星付きレストランに来て・・・というイメージだったのですが、最近は日本人歓迎ムードが漂っていて・・・。日本人が認めたら○みたいな?ミシュランのおかげでしょうか?? でも、やっぱり、日本のフレンチの方が断然おいしいです!  (平内 幾与)

◆日本語の将来はどうなるのか、心配でもあり興味もあります。

昨日のテレビで、最近の若者が難しい漢字を使うというのを見ました。パソコンや携帯で簡単に検索できることで、漢字に興味をもったとのことです。私などは、パソコンのせいで難しい漢字は読めても書けなくなっています。日本語の将来はどうなるのか、心配でもあり興味も あります。    (保谷 裕子)

◆中国では、最近、簡体字からまた旧文字に戻そうという動きも・・・

漢字代々の歴史から見ると、「表意文字」という性格から字数がどんどん増えて行く。 一方、字数を減らしたり簡略化する試みも同時に変遷の歴史を辿った。現在の「簡体字」は、文革の際の周恩来の主導(1958年)に基づきます。最近では、簡体字からまた旧文字の繁体字に戻そうという動きも出始めています。尚、漢語の中には西欧の語彙を日本語に訳され、それが中国語に定着している例が多い事も再認識すべきです。   (北浦 真幸)

◆漢字に対するこだわりが、人それぞれにあるようです。

私は、長く高校教師をしていたので、知らず知らずのうちに、教科書の文字遣いになじんでしまっています。それで、日常は、常用漢字以外の漢字は、ほとんど遣っていません。妻は、手紙を書くときなど、辞書を引きながら、漢字を多用しています。私が、「そうまでして漢字で書く必要はない」というと、「漢字を知らないと思われては恥ずかしい」と言います。漢字に対するこだわりが、人それぞれにあるようです。    (津村 和宏)

◆「高嶺の花」は、今や「高根の花」に。

日本でも漢字が表意文字から表音文字になってきつつあります。例えば、「高嶺の花」は、今や「高根の花」に。「そんなバカな!」という方がおられるでしょうが、国語辞典にも事例が出ており、昨日の読売新聞にもありました。使う漢字を制限するから、こういうことになるのでしょうか?   (奥原 一好)

◆漢字は日本で発達して定着しているのではないでしょうか? 

今回の「漢字」の問題は、小生にとって重いもので、ご返事が遅れました。私は漢字、和語、ひらかな、カタカナ等を意識して使った記憶がありません。但し、ローマ字はパソコンの入力に必要なので、最近使用しています。困った事は、ローマ字表示の駅名が電車通過時によく読めないことです。外国人が増えた所為でしょうね。漢字なら一字だけでもなんとかなるのでしょうが・・・。

万葉かなについては、奥の細道を歩いた時や、歌碑、句碑を読むときに万葉かなで書かれていることが多くて、読めない時がありました(時間の経過で文字が薄れていた所為もありましたが)。

ところで、漢字は日本で発達して定着しているのではないでしょうか? 漢字のない生活は想像できません。俳句は文語で詠むので、文語で悩む時には漢字を使用して逃げています。    (日吉 忠弘) 

◆ガルブレイス著「ゆたかな社会」第二章~通念というもの~

人は、生まれる国や言葉を選ぶことはできません。国語は難しいと気づいたときには、もうもうそれをすっかり身につけているでしょう。自国語の、アレがいい、コレがよくないということができても、個人には、それを変革するまでの力はありません。国語審議会委員でもないし、意見を求められてもいないのです。

貴君の強い問題意識が、今回のテーマを選ばしめ、その準備をした。しかし、一般の人にとって、「なるようにしかならないものさ、国語は」というところでは・・・。少しく古い書物ですが、ガルブレイスの「ゆたかな社会」の第二章~通念というもの~をお読み頂くと、ヒントが得られるかもしれません。  (森 泰生)

◆興味深く、密度の高い内容で、参考になります。

『いなほ随想』第三集「日本語と漢字~漢字は我われ日本人に何をもたらしたか?」を拝見しました。興味深く、密度の高い内容で、参考になります。稲門会のホームページ、ますます充実・・・ですね。   (大木 壯次)  

                                                               





福知山「広小路」のセピア色の面影
~そして甦る戦後、小学生時代の映画三昧の楽しき日々の想い出~


藤田昌熙(38文)

★いやはや暑い! 夏は暑いと覚悟してはいたものの、この暑さには閉口。クーラーの部屋からなかなか出られません。そこで一句

     蝉は出で吾冷房の部屋籠り  (昌)

★ところで、その暑さを吹き飛ばす(!?)なんともなつかしい写真が手に入りました。友人が送信してくれたわが郷里丹波福知山の写真。「広小路」、私にはまことになつかしい写真です。  

★わが家は、何しろこの写真の広小路から百米余。歩いて4~5分。ここには「日活」(現在「スーパーさとう」、「松竹座」(現在「商工会議所」)、そして「外映」(外国映画専門館)と三つの映画館があり、もう映画は見放題。週に10本以上(何しろ、当時は2本立て、3本立てでしたから)観ておりました。

★実は当時、小学生は「日曜映画」(学校が認可した映画が日曜日子供に公開された)以外、映画は禁止。納得できない小生は禁を破って観ていた、というわけです。お蔭で、ゲーリー・クーパーやジョン・ウェインの西部劇をはじめ数々の泰西名画や話題の日本映画のほとんどを観、これがその後大きな財産になりました。

★盆踊り、サーカス、相撲巡業、お化け屋敷、夜店に親しんだのもこの広小路。言ってみれば、小型の浅草、心斎橋だったわけで、なんともありがたい環境でした。但し、上掲の写真は戦前のもの。年代はよくわかりませんが、おそらく私がまだ生まれる前の写真。従って、なつかしいといっても実際は祖父母、曽祖父母の時代の一場面といえます。(投稿:10.7.23.大暑の日)


わが郷里福知山・広小路今昔

[大正初期(?)の福知山広小路]
[平成22年8月の福知山広小路]

★8月28日、無事に故郷の丹波から帰京しました。今回は19日間の帰省で、東京は久しぶり。少しは涼しくなっているかと思っていましたが、まだまだ暑いですね(但し、関西もずっと暑かったですが…)。
 
★19日間というと、随分のんびり出来たみたいですが、なかなかそうもゆかず、前半はお盆の準備(家の掃除、お墓の掃除など)、迎え火、送り火、花火大会、盆踊り、親戚訪問等など。その上、今回は姪の結婚式、親戚の葬儀と続き、あっという間に過ぎた感があります。それでも、これだけの期間があると、朝夕の散歩、友人との語らい、一杯会、旧市街の散策、城崎温泉巡り等、のんびりくつろげる時間もあり、「故郷に帰ってきたなぁ!」という実感のした帰省でした。

★帰省に際して、ホームページ管理人の松谷さんから「1世紀を隔てた広小路の今昔の写真を並べたい。定点観測のやり方でショットしてきてくれませんか」と声がかかり、古い写真とにらめっこしながら現在の広小路を撮ってきました。

カラー写真(左)は、「広小路」の北側を撮ったものです。商工会館の文字の写った建物が、セピアの写真(左)の「芝居小屋」かと思われます。私の子供の頃(昭和20年代~30年代前半)は映画館「松竹座」、現在、「商工会議所」になっています。

★何しろ、セピアの写真から百年経っておりますので、当時そのままの建物がなく、店舗も変わって、比較しにくいのですが、広い道路だけは変わらず、今も「広小路」と呼ばれております。道路の中央に見えるのが夏の盆踊りの櫓です。昔(昭和30~40年代)は、盆踊りの人でこの「広小路」が埋まりました。(投稿:10.9.21.)



わが郷里福知山・広小路今昔
~友人・知人からの反響メール~

小平稲門会ホームページ管理人ごあいさつ

★7月中旬、藤田さんがメル友の諸兄姉に大正期撮影と思われる 「わが郷里福知山・広小路」の写真付きで思い出話をメール配信されました。小平稲門会ホームページ管理人の私宛てにも小平稲門会同人のよしみで送信いただき、同稲門会ホームページの「いなほ随想」コーナーへの転載を要請。快諾を得て、[福知山「広小路」のセピア色の面影~そして甦る戦後、小学生時代の映画三昧の楽しき日々の想い出~]のタイトルのもと古写真2葉で登載させていただきました。

★その際、「セピア色の古写真だけでも十分面白いが、街が100年でどう変わったか、今昔の写真を並べて載せれば歴史的な資料にも成り得る。今夏帰省の折を利用して、ぜひ広小路の同じ地点の写真を撮ってきてほしい」と依頼しました。これも応諾いただき、首を長くして待つこと2カ月、定点観測写真が帰省中の報告文とともにメールで届き、管理人としての宿願を達した次第です。

広小路の交差点付近から北側を望む

★そして、登載翌日に早くも藤田さんから「ホームページ登載を知らせたら、お蔭様で大反響です。皆さまから嬉しい返信を頂戴しました。ありがとうございました。まだまだメールが届きつつありますが、まずは今日のところを」とメル友の皆さんから続々と送られてきた感想メールが、報告を兼ねて転送されてきました。皆さんと管理人の私の思いが同じだったことを確認、藤田さんのご了承を得て感想メールをここに登載させていただくことにしました。事後承諾になりますが、ご了承ください。(ホームページ管理人 松谷富彦)



 [感想メール](順不同・敬称略)

◆「広小路」の今昔対照写真、面白かった。

「広小路」の今昔対照写真、面白かった。ありがとう。編集者の注文を踏まえての撮影だったと知り、適切な助言だったようで、注文した人も、それに応えた人も、立派だと感心した。

初めて認識したビルもあり、しばらく(5年?)帰福していないな、いや、帰福しても町並みをよく見ていなかったのかな、と思ったりした。絵葉書の場所に見合うところが、同じような視点で撮られていて、ありがたく、参考になりました。絵葉書では、御霊さんのあたりが釈然としなかったが、納得しました。

古い絵葉書だけでなく、念入りな対照によって、歳月への感慨も深まる。

ところで、「小平稲門会」のHP、遠藤雅司さんも書いていてビックリ。彼は私と同様、元早大職員で、鉄道研究会会員だった。健在なのに安心した。 (吉田 正信)


◆さすがに早稲田大学は多士済々。

貴兄の随筆と写真、共に楽しく拝見しました。ついでに、他の記事も拝読しましたが、さすがに早稲田大学は多士済々の卒業生と感じました。

私のホームページにも「福知山市」を紹介した拙文がありますので、ご紹介致します。これは昭和37年春に「ゼミの雑誌」に投稿した記事と追加文書です。

  http://www5d.biglobe.ne.jp/~shiomi/fukutiyama.htm (塩見 幸市)

◆人通りも少ないように見え、地方都市のいまを写し…

写真データ受領しました。ありがとうございました。広小路の現在がよく分かりました。お祭りの提灯も見え、夏の盛りですね。そのせいか、人通りも少ないように見えますが・・・。地方都市のいまを写しておられますね。(杉本 憲明)

◆“広小路”の写真は、瞬時に故郷にタイムスリップさせて呉れました。

”小平稲門会”のHP、ゆっくり拝見しました。学友や先輩・後輩の顔ぶれが多様な学識人である事が容易に窺え、貴君の切磋琢磨が如何に貴君自身の豊かな感性を更に高めていられるかを感じて、羨ましく思ったしだい。

あの”広小路”周辺が微かな記憶と共に色褪せない想い出として老い耄れた私を 瞬時に故郷にタイムスリップさせて呉れました。貴君の回想に度々見る洋画を初め”映画館”の想い出 話は、私も同様で、母の姉が嫁いだ処が駅前通りの南本町の ”岩城看板屋”だった事が大いに幸いし、小・中・高時代には毎月のようにロハ券欲しさに叔母に声を掛けた悪餓鬼でした。貴君も当時、明治や森永のミルクキャンデーや塩昆布を食べながら映画鑑賞三昧の日々を送ったのでは…。 

この夏は、貴君の19日間に亘る故郷の原風景をめぐる其処此処の紀行に添えた労句を羨ましく拝見しました。いつもながら貴君の句作の行程が容易に読み取れる”労作や秀句”に心からの謝意を込め、返書とさせて頂きます。有難うございました。 (「丹波屋彦兵衛」佐藤英彦)

◆我々が子供のころ賑わった旧市街は寂れてきているようですね。

広小路の写真、有難うございました。先般、帰福時に広小路に寄り、中島の肉屋で名物の焼き豚を購入、隣の蒸気機関車展示場や「ぽっぽランド」を見てきました。お送り頂いた写真にも人が見当たりませんが、この日も閑散としていました。

市の中心が西に伸びるに従って、我々が子供のころ賑わった旧市街は寂れてきているようですね。父の墓のある三段池周辺を散策しましたが、福知山動物園では、瓜坊とこれに乗る子猿(いずれも親とはぐれ動物園で保護されている)が人気を博していました。父の寄贈した腰かけ石(父の句「秋の水 流れ来るもの 何もなし」が刻まれている)に腰かけ、涼を楽しむとともに、しばし、昔を偲んできました。(冨士原 坦)

◆定点観測…面白い試みですね。

メール、ありがとうございます。HPも拝見しました。定点観測…面白い試みですね。そうですか、盆踊りのやぐらは広小路に組んだのですか!空き地かと思っていました。

私が福知山にいたのは、63年前。100年前の写真は、当時からいえば37前の写真。現在の写真は63年後の写真。セピアの写真のほうが身近に感じるとは…いやはや、なんとも爺さんになったわけです。 
                                                     (奥原 一好)

◆「しまって置きたい風景」

広小路の写真、よく撮れていますネ。昨年の暮れにあの近辺を歩きましたので、なおさら懐かしく思います。だんだん遠くなっていく古里ですが、「しまって置きたい風景」です。気候の変わり目、ご自愛下さいませ。(余田 彌生)

◆小平稲門会のホームページは、内容豊かで充実しています。

小平稲門会のホームページ・寄稿文、読ませていただきました。よくまとまっています。ホームページも内容豊かで、それぞれの紀行文も充実した内容で、感心しました。

私は国分寺ですが、今年も「小金井稲門会」の依頼で「小金井稲門会美術作品展」の展示指揮をしました。小金井福祉会館のロービーの展示会場に絵画、書、写真など40点ほどの作品を2時間かけて展示しました。私も30号の油彩画を2点、賛助出品しております。(高橋 幸雄)

◆「小平稲門会」のHP、帰宅の通勤時間いっぱい拝読。

「小平稲門会」のHP、拝読。電車の中にプリントを持ち込み、読むこと40分。帰宅の通勤時間いっぱいかかりました。いろいろ興味深い記事がありますが、特に、山屋他人大将の記事は、自分が基本的にライフワークとしていることに関連しており、面白く読ませて頂きました。(寺坂 義弘)

◆まさに定点観測のやり方での撮影の面白さ。

「いなほ随想」第三集、「福知山『広小路』のセピア色の面影」を拝見しました。達意の文章と新旧の写真の対比、見事です。一世紀を隔てた福知山の今昔の写真。まさに定点観測のやり方での撮影の面白さがありますね。

なお、この写真から100メートル北に入った所にある藤田さんのお宅は築90数年変わらずとのこと。すでに立派な“文化財”だと思います。(大木 壯次)

◆定点観測で当時と現在の比較、なかなか見事!

「写真で見る広小路今昔」拝見致しました。定点観測で当時と現在の姿の比較、なかなか見事と感心致しました。11月の南陵中同窓会で帰省するのを機会に、「広小路」を見てみたいものです。(山下 正)
                                                  

◆広小路の新旧対比、楽しませて頂きました。 

「小平稲門会」のホームページ、拝見。広小路の新旧対比、楽しませて頂きました。(大畠 薫)

◆「広小路今昔フォト」は懐かしくて…

 「広小路今昔フォト」は懐かしくて・・・。子供のころから広小路は楽しい思い出の街です。映画も、寺町の知人になんども連れて行ってもらいました。花火も、盆踊りも…

「広小路」と言えば思い出がいっぱい詰まっているのです。思い出に浸らせて頂き、ありがとうございました。どうかご自愛のほど。(足立 みどり)

◆思い出の場所…思い入れがあって、とても面白く…

暑さにも負けず・・・創作意欲はちっとも衰えを見せませんね。暑さに弱い私にとっては、羨ましいのを通り越して少しネタマシイ?

 「福知山の広小路今昔フォト」、とても面白く読ませて頂きました。写真の今昔は時々見ますが、思い出の場所…思い入れがあって、とても面白く読ませて頂きました。写真も活きますね。(荒木彌榮子)

◆大正時代の街の風景を写した写真が残っているとは…!

「小平稲門会HP」を拝読しました。大正時代の街の風景を写した写真が残っているとは、 滅多にあり得ないことと思います。現在の同じ場所との対比に時代の推移を感じ、興味を持ちました。  (津村 和宏)

◆小平稲門会は学術的ですね。

いつも興味深いメールありがとうございます。今回も面白く読ませていただきました。小平の稲門会は学術的ですね。町田稲門会の小生の参加の会は、麻雀、スポーツ観戦の会など遊びが中心です。もう歳ですから、遊びを重点的に参加することにしております。気楽に過ごしたい…と。(入江 誠次郎)

◆「敬老会」と「同窓会」で、10月は忙しくなりそうです。

彼岸の中日は冷たい雨。その後急に秋めいて11月中旬の気温に。真夏日からいきなり秋のど真ん中で、着る物の選択も大変です。

「広小路今昔フォト&随想」、楽しく拝見させて頂きました。当方、大正学区の敬老会の開催があと一週間と迫り、準備も秒読みに入って参りました。今年は我々同級生が「古希」を迎え、大勢参加してくれます。久々にあえる同窓生もいて、楽しみです。

また、10月22日には桃映中学校の同窓会が開催され、10月は忙しくなりそうです。南陵中学校の同窓会に帰福されましたら連絡ください。(田中 典男)

◆充実したホームページ、敬服しています。

「わが郷里福知山・広小路今昔~友人・知人からの反響メール~」、小平稲門会の「ホームページ管理人ごあいさつ」を拝見しました。充実したホームページですね。敬服しています。 (大木 壯次)

 ◆この夏は、スイス・アルプスでトレッキングを。

いつも、時々の話題を深く掘り下げたメールを送っていただき、有難うございます。今回の「わが郷里福知山・広小路今昔」も興味深く、楽しく拝見しました。

私の夏は、8月1日~2日に千葉県の館山で遠泳。約2時間かかりましたが、無事に泳ぎきりました。小平市の水泳協会に毎年参加していますが、今や最高齢で頑張っています。

8月20日から19日間、スイス・アルプスでトレッキングをしてきました。猛暑の日本と違って涼しい、時には寒い夏を送ってきました。その時の写真の幾つかをお送りします。ご高覧頂ければさいわいです。 (小林 教男)


*今回ご披露するする写真は、知人の小林教男さんからご送信頂いたスイス・アルプスの写真です。小林さんは70歳代後半。都内の小学校の先生でしたが、退職後に個人でネパールに10回も出かけたそうです。そして13のトレッキングルートを踏破されています。水泳も達者で現在、小平水泳協会に所属。この夏は館山での遠泳に参加し、出場者の中で最高齢だった由。まさに、元気な高齢者の代表です。(藤田 昌熙)

[町が丸ごと世界遺産のベルン三景 一泊]
600年前完成したゴジック様式の大聖堂 1218年から時を刻んでいる時計塔
コルン橋からアーレ川を望む

[アルピニストの夢の詰まったグリンデルワルト 六泊]

アイガー北壁(アイガーに掘った鉄道のアイガーヴァント駅)
の窓からグリンデルバルトの村を見る

スイス初の世界自然遺産ユングフラウヨッホ(3454m)
偶然にヘリが飛んできた
氷河のクレバス
岩の下に咲く可憐な花
山上の草原(アルプ)の主は何を思うか
グリンデルワルトの村
多くの尊い命を奪ったアイガー北壁を教会の屋根越しに見る
ブリエン湖岸の村
シャデック峠で一緒に歩いた母子

ホテルのベランダから


[岡田ジャパンの高地トレイニングで有名になったサースフエー(1800m)に7泊]

村内のトレッキングルートから

ミッテルアライアン(3500m)では、世界
ジュニア夏季トレーニング真っ盛り

 私もひと滑り? 雨もよいの中のエーデルワイス
観光客で賑わうツエルマットの大通り
クレバスの連続
巣穴から這い出てきたマーモット
マーモット
岩と雲と青空と
 雲間より

 サースフエー村全景 右下に岡田ジャパンのトレーニング に
 使ったグランドが

ホリディアパートからの夕焼け
ネズミ返しのある家々
氷河を抱く山の頂

はるかな谷底に姿を現した アイベックの家族


[サンモリッツで3泊]
ゆったりと走る氷河特急。ワインの美味かったこと
大満足の同行者

[機中で一泊]
涼しいスイスから帰ると、酷暑の東京がつらい。ツエルマットでは8月だと云うのに雪が降っていた。
                                                        (写真:小林 教男)

◆小林教男氏撮影の「スイス」の写真、すばらしく、魅力的ですね。

 「いなほ随想 第3集」に掲載されている小林教男氏撮影の「スイス」の写真、いずれもすばらしく、魅力的ですね。改めて見惚れています。 (大木 壯次)

◆スイスの景色はいいですね。青空とさわやかな風があって…。

小平稲門会のホームページは、立派ですね。蓮田白岡にも今年「稲門会」が設立され、私も会に入りましたが、ホームページがあるかないかはわかりません。小平稲門会のホームページ、なかなか全部は読みきれませんが、スイスの景色等はいいですね。青空とさわやかな風があって…。

先月、頂上で星空を眺めようと一人で鳥海山に行きましたが、雨と霧と不安感に悩まされ、頂上には行きましたが、社務所に1泊して帰ってきました(動じない精神にはなれなかった不甲斐なさをかみしめながら…)。 (北木)

◆「小平稲門会」ホームページ」、どれも素晴らしい写真ですね。

 「小平稲門会」ホームページ」、どれも素晴らしい写真ですね。小平稲門会にはいっていませんので、このようなホームページがあるのを知りませんでしたが、何人か知っている人が載っていました。
  
小林教男さんは、この夏、小平市水泳協会の行事に参加されたとのことですが、この会長を務めているのが以前私の上司で、大学の先輩でもあります。ところで、小林さんは、以前小平市で人権擁護委員をされていた方(昭和8年生れ、花小金井南町一丁目在住)でしょうか? (金子 武弘)





♪合唱と私♪
~男声合唱団「K.K.メンネルコール」の活動に寄せて~


滝口幸一(平成8文)


★早いもので早稲田を卒業し、今年で12年目を迎えます。学生時代は防具空手会に所属し、同時に「みのむし旅の会」というサークルの幹事長を勤めていました。趣味は旅行、登山、自転車の私に「合唱」という新たな趣味が加わったのは、小平稲門会の活動があったからです。

♪KKメンネルコール入団の経緯♪

★一昨年の新春交歓会にて小林秀雄先輩から「おまえ、いい声してるな。合唱をやっているから一度見学においで。」と誘われたことをきっかけに私の人生に合唱が加わることになりました。見学に伺った当日、私は風邪をひいて熱があり、薬を飲んで意識も朦朧としていました。津田町公民館に伺うとダンディーな先輩方が美声を響かせていました。小林先輩が「今度入団することになった滝口君。みんなよろしくね。」と紹介し、私としては軽い気持ちで一度見学するだけだったはずがそのまま入団という運びになってしまいました。

★早稲田の先輩というと在学時代から良い意味で多少強引な人が(迷っていると背中を押してくれる人が)多かったように記憶しています。合唱は高校の合唱コンクール(全員参加)が最後でカラオケもほとんど歌えないのにできるのだろうか?と不安に思っていましたが、全くの杞憂でした。

♪合唱との出会い♪

★それは私が東京都立南多摩高校の一年生のときでした。南多摩は校歌が混声四部合唱であるくらい合唱に力を入れている学校で、年に一度合唱コンクールがあり、全員の参加が義務付けられていました。当時の私は非常にしらけた生徒で、合唱にはまったく興味がなく、練習する時間を疎ましく思っていたほどでした。その認識が劇的に変わったのが当時の3年生のあるクラスが歌ったレ・ミゼラブルのワンデイモア(3年生の手で編曲されていた)を聴いたときです。

★会場は八王子市民会館だったと思います。生徒で埋まった満員の客席を沸かせたあの合唱、いまだにいつ思い出しても鳥肌が立ち涙が出ます。声が、顔が、そしてハーモニーの全てが素晴らしかった。演奏が終わった後、皆が抱き合って泣いています。鳴り止まない拍手、そのとき私は合唱のもつ本当の力をはじめて知りました。その後、ミュージカルのレ・ミゼラブルも観にいきましたが、残念ながらあの時の感動は味わえませんでした。

♪練習風景♪

★団の練習は週に一度、木曜日午後7時から9時30分までです。場所は中央公民館、津田公民館、東部市民センターの3箇所で、防音室、ピアノを備えています。先生は二期会所属のテノール歌手、下村雅人さんです。小平稲門会の総会などでおなじみの方も多いのではないでしょうか。声楽に関して素人の私でも聞きほれてしまうくらい美声で声量豊かな方です。ゴスペル(黒人霊歌)の指導の時には手拍子でリズムを刻みながら、発声練習の時には歩きながら声を出すなど、ご指導も工夫に富んでいて楽しく練習することができます。現在秋のリサイタルに向けて練習に熱が入っています。

第21回小平稲門会総会で演奏するK.K.メンネルコール
(平成21年11月24日、ルネこだいらで=前列右端が筆者)
独唱する下村雅人先生
撮影:国友康邦 撮影:国友康邦
合唱指導の
下村雅人先生
リーダーの
塩田智男先輩
ピアノ伴奏の
小寺高子さん

♪合唱の効能♪

★私は市議会議員をしています。市長が提案する議案(条例案や予算・決算等)を審査し、議決するのが主な仕事です。議案は扱いに神経を使うものも多く、時には疲れ果てて元気がなくなってしまうこともあります。そんな時、合唱をして大きな声を出すとすっきりします。また、入団して間もない私が言うのも恐縮ですが、合唱はハーモニーそのものです。周りの先輩方、他のパートとの調和なくして合唱は成り立ちません。しかし、その調和するということが難しい。もちろん、他のパートにつられて自分のパートを間違えることもありますし、多くの曲を覚えきれずに歌詞を間違うこともあります。

★団員一人ひとりの研鑽、熱意、先生の指揮が全てそろったときに初めて素晴らしいハーモニーが生まれます。その様は空中に調和した歌声が揺蕩うようで、自分だけでは決して生み出すことのできない素晴らしい瞬間です。声というものは自分の咽喉から出た途端に切り離されるものと認識していましたが不思議なものでハーモニーというものはしばらくその空間にとどまっているような錯覚を覚えます。平板な言葉になりますが、感動と癒しがそこにあると私は感じています。

♪KKメンネルコールメンバーに思うこと♪

★KKメンネルコールのメンバーのほとんどは、60歳以上の方です。社会の第一線で活躍され、初めて自分の自由になる時間を持つことになったときに合唱を選ばれた方、もちろん学生時代に合唱に親しんでらっしゃった方もいます。皆私の大先輩です。練習を休みがちな私にも優しく声をかけてくださり、私をご自宅に呼んでレッスンしてくださった方もいます。皆ダンディーで、練習熱心です。また、インターネットを駆使して楽曲をメールで送っていただき、自宅で音とりの練習に励むこともあります。

★私は団の活動を通じて、多くの先輩方とともにひとつの目標に進ませていただく素晴らしさを実感しています。自分が癒されるとともに聴く人をも癒しうるハーモニー、しかしながらそこに至る道は決して平坦ではありません。だからこそ、助け合い、励ましあって長い道のりをともに歩んでいく連帯感が生まれるのだと思います。新参者の私にも本当に良くしてくださり感謝しています。

♪合唱と社会貢献♪

★社会貢献というと何か硬いイメージがありますが、KKメンネルコールは年に2回ほど老人ホームや障がい者施設に伺って合唱をします。昨年は介護付き有料老人ホーム「まどか秋津」、今年は小平市内の知的障がい者援護施設「澄水園」でボランティアをする予定です。男声合唱は珍しいらしく、施設利用者も職員の方々にも喜んでいただいています。歌い手だけでも合唱はできますが、どなたかの前で歌うという目標を立てることで練習に取り組む姿勢が引き締まります。今後も肩肘張らず歌うことで人様のお役に立てればよいと思います。

小平市女性の集い30周年に招かれて演奏する
K.K.メンネルコール(平成22年1月10日、ルネこだいら)
介護付き有料老人ホーム「まどか秋津」で演奏を終わって
撮影:松谷富彦

♪団員を募集しています♪

★KKメンネルコールでは団員を募集しています。練習日は毎週木曜日19:00~21:30、場所は中央公民館、津田公民館などです。塩田代表をはじめ、稲門会会員の方も数多く在籍しています。興味もたれた方は是非一度見学にいらしてください。初心者の方も大歓迎です。(K.K.メンネルコールホームページアドレスhttp://www6.ocn.ne.jp/~corokk/





海外駐在商社マン四方山話
~5都市で約13年の外国暮らしア・ラ・カルト~


利根川慎治(37政経)

★大手商社勤務の33年の間に、海外5都市に約13年間駐在し、日本国内では得難い、珍しい経験をさせて貰いました。以下、思い出すまま時系列的にご紹介させて頂きます。

☆ニューヨーク (1971年7月~75年8月)

◆地下鉄ホームで遭遇した拳銃活劇

★71年1月から75年8月までNYに滞在、最初の1年間単身赴任の時の出来事。

ニューヨーク地下鉄の駅入り口 タイムズスクウェア駅入り口
MTA地下鉄情報HPから転借 Wikipediaから転借

★夜11時頃、マンハッタン・ウエストサイドの地下鉄ホームで一人で電車を待っていたところ、黒人の大男が二人、拳銃を手にホームに走り降りてきた。その後を二人の白人警官が、拳銃を振りかざし追いかけてきて、黒人は真っ暗な線路に逃げこんだ。

★上司とおぼしき年上の警官が若い方に、トンネルの中を追いかけるよう、何度か身振り手振りで命令するが、若い方は盛んに首を横に振っている。顔も服装も黒い二人が、真っ暗なトンネルの中から、煌々と明るいホームにいる白い警官を狙い撃ちするのは、簡単だろうなあ、と妙なことを考える私。

ニューヨーク地下鉄 地下鉄駅プラットホーム
MTA地下鉄情報HPから転借 MTA地下鉄情報HPから転借
注:ニューヨークの地下鉄はマンハッタンを中心に26路線が24時間運行。駅の数は468駅ある。

★あたりを見回すと電車待ちだった十数人の乗客たちは、誰もいなくなり、私一人だけホームのむき出しの鉄骨のかげから、ことの成り行きを見ていたことになる。こんなところで流れ弾に当たっては大変と、生来の野次馬根性をぐっと抑えて地上に出て、タクシーで帰宅。(翌日のニューヨークタイムズ紙には、事件のことはなにも載ってなかった。銃撃戦は無かったのかもしれないし、もしあったとしても、治安がかなり悪かった当時のことゆえ、記事にならなかったのかも知れない。)



☆クウェート (1981年~83年)

◆機銃の照準をピタリと合わせ、サイレン鳴らして近づく快速艇

★電力ケーブルのフルターンキー工事の現場事務所に、某電線メーカーの工事部隊と一緒に、1年半滞在。とある休日の金曜日に隊員10人ほどとアルミ製のボートに乗り、海釣りに行く。アラビアのさんご礁の海はどこまでも透明で、派手な色の熱帯魚が入れ食い。

電線のストックヤードに立つ28年前の筆者(82.2.撮影)

★あまり沢山釣れるので一時間ほどで飽きてしまい、ボートのまわりを泳ぎまわった後、さて帰ろうと古い船外機のエンジンをかけようとしたが、何度やってもかからない。周りを見回すと、潮の流れが速く、王様(首長)の海浜別荘にどんどん近づいて行く。そのとき別荘とは反対側の海のかなたから、けたたましいサイレンが鳴り響き、二人乗りの黒い沿岸警備隊の快速艇が近づいてくる。一人は屋根に備えた機銃の照準をピタリとこちらに合わせている。

★魚釣りに出かけるのに旅券など持っている者はなく、全員ホールドアップの姿勢となった。「ヤバニ!ヤバニ!(日本人!日本人!)」と数人が大声をあげたところ、かなり上手な英語で「日本人なのは分かっている。このあたりは首長の別荘の海なので、すぐ出て行け」と言われたが、船外機が故障したというと、牽引してやるという。

★それから十数分、近くの桟橋までサイレンを響かせながら牽引されたが、サイレンを聞きつけて集まってきた大勢のインド人などの出稼ぎ人が桟橋にずらりと並び、拍手で出迎えを受ける羽目になった。

首都クウェート市 クウェートの街角で
Wikipediaから転借


☆テヘラン  (1983年8月頃)

◆「神は偉大なり!」唱和させられる羽目に

★イラン・イラク戦争(80/9~88/8)の最中、1年間駐在。ある金曜日の夜8時頃、イラクの偵察機が一機、丘の上にある宿泊先のホテル上空に飛来。約30分にわたり、イラン革命防衛隊が、照明弾と高射砲を打ち上げるが、弾が届かず、イラク機は相手をあざ笑うかのように、ライトをつけたまま上空をぐるぐる回っている。イランの戦闘機の迎撃もない。

★しばらくすると同じホテルのすぐ下のテラスから戦闘服を着た帰休兵4、5人が、「フセインをやっつけろ!」「神は偉大なり!」とシュプレヒコールを始める。上から覗き込んでいると、兵隊と目が合い、日本人も一緒にやってくれと言われ、断って部屋に殴り込まれでもしたら困るので、唱和する羽目となった。

★30分程してイラク機は西の方角に飛び去った。この間、私は戦争中のイラン国民にはすまないと思いつつ、テラスでルームサービスの紅茶をすすっていた。

首都テヘラン
Wikipediaから転借
テヘラン公園で テヘラン支店の現地スタッフたちとレストランで会食


☆ドバイ  (1990年3月24日)

◆着陸時の横風で油漏れの緊急事態発生


ドバイ事務所長として2年9ヶ月単身赴任。この間、仕事は順調、余暇の方もゴルフ、マージャン、テニス(GMT)を中心に、砂漠での生活をエンジョイした。

ドバイのジュメイラ・ビーチ
Wikipediaから転借
[よく働き]
ドバイ運河のダウ船を背に

[よく遊び]
エミレイツGCでプレーする筆者 同ゴルフ場風景
筆者注:ドバイの「砂漠の中のゴルフ場」です。ちなみにこのゴルフ場「エミレイツGC」は、88年ごろ開場、欧米の一流選手も出場する大会でも使われています。

★任務を終え、キャセイ航空のトライスター機で、香港から、90年3月24日午後、成田に到着。しかし不運にも機は瞬間風速20メートル近い横風を受け、激しく3回バウンドしたのち空港ビルに向かわずに、滑走路の端で止まってしまった。

★私はビジネスクラスの右側に座っていたが、左側のだれかが「油が漏れてる」と大声をだしたので、そちらをみると、左翼付け根にできた1メートルほどの亀裂から、黒いジェット燃料がジャブジャブと流れ出している。そのうちにエヴァキュエーション(脱出)の赤ランプ点滅と機内放送あり、赤い制服の客室乗務員3名が反対側のドアを開き、脱出シュートを使っての脱出方法を簡単に説明後、先に降りて行った。


★エコノミークラスの阿鼻叫喚と比べ、我々ビジネスクラスの乗客は、殆ど口もきかずに落ち着いて整列。機内の説明では、「手荷物は持たないで」であったが、私は当時、今以上に軽量であったので、重し代わりに、重要書類の入ったアタッシェケースを右手に、ウィスキー2本の入った袋を左手に順番を待つ。

◆脱出シュートで黒い油の中へ

★10人目くらいに順番が来たが一般住宅の3階位の高さの感じで、風は唸りを上げ、脱出シュートは吹き上がっている。下でシュートを押さえるからと、先に出て行った客室乗務員は一人もいない(真っ先に逃げたらしい)。前の人の着地と同時に脱出、すでに10センチ以上溜まっている黒い油の中に飛び込む。

★眼鏡やうちポケットのペンは吹っ飛び、背広の肘やズボンの尻は大きく裂け、手のひらは血だらけになっている。(降下時のスピ-ドを落とすため、シュート表面が細かいいぼ状になっていた為らしい)。眼鏡をやっと見つけ出し、200メートル程はなれた所まで走り、迎えのバスを待つ。


◆混乱をカメラに収め、新聞社に送った機転の乗客もいた

★中国人が殆どと思われるエコノミークラスはまだ脱出中で、周りを見るとその光景を撮影している人がいたので、私もコンパクトカメラで数枚撮影。(その写真は翌日人事部への報告に使ったが、乗客の中には読売新聞に送り、「読者による報道写真」で一席をとった人がいた・・・世の中には抜け目の無い人が居るものだと感心。)

読売新聞に載った事故を伝える乗客撮影の投稿写真

★やがてバスが来て空港ビルに到着。キャセイが乗客全員を近くのホテルのロビーに案内し、お詫びと今後の説明をするので、待って欲しいとの事だったが、一時間以上待っても進展なく、(エコノミークラスでは、脱出シュートの途中から転落し、腰を骨折など十数名のけが人が出たので、そちらの対応に忙しく、無事な客は後回しにされたらしいが)その間、タバコも吸えない。(イライラして思わず吸おうとしたところ、「引火しますよ!」と係員がとんできた。)


◆生まれて初めて味わったホームレスの心境

★一向に埒が明かないので、キャセイの日本人係員から、自宅までのタクシー代を払うとの確約を取り付け、タクシーに乗車。油の臭いが強烈なので、運転手にビニールシートを借りて体に巻きつけ、窓をあけたまま、寒いのを我慢して東京駅近くまで来たが、運転手が、吐き気がするので、すまないが降りてくれと言うので、やむなく八重洲口で下車。あらためて乗り場に並んだが、回りの人は鼻をつまんだり、逃げて行く始末。ぼろぼろの背広と悪臭で、生まれて初めてホームレスの心境を味わった。


★一時間後やっと家族と再会。

「たら」「れば」はゴルフのみではなく、人生にも無いと思うが、もし脱出前の機内で誰かが誤ってライターをすったら、(機内には既にもの凄い燃料の臭いがたちこめていた)間違いなく大爆発が起こり、私はこの拙文を書いていない訳で、幸いにも生き長らえた以上、一日一日を大切にして、楽しく生きて行きたいと思う。 


☆ウィーン(1992年11月~1995年4月)

◆ゴルフ、マージャン、クラシック音楽三昧の日々

★「見做し公務員」としてジェトロに出向し、対日輸出アドバイザーとして2年5ヶ月単身赴任。ゴルフ、マージャン、クラシック音楽三昧の毎日。国立歌劇場や楽友協会ホールなどでオペラ、コンサートを鑑賞した回数は、当初目標の100回を超えた。

ウイーン国立歌劇場
Wikipediaから転借
早大交響楽団のウィーンでの演奏会プログラム

★94年の秋ごろだったと思うが、岩城宏之氏指揮による早大交響楽団の演奏会が、市内のコンツェルトハウスで開かれ、ウィーン稲門会員約10人と堪能した。特に武満徹氏作曲の和太鼓連打入りの交響曲は、耳の肥えたウィーン子も度肝を抜かれたらしく、スタンディングオベイションが長く続いた。終了後、稲門会員全員で楽屋へ行き挨拶。岩城氏は主に会長に任せ、ほかの会員は、教育学部4年の女性コンサートマスターを始め、十数人の学生と歓談することが出来た。(終わり)

 





『坂の上の雲』に登場する「円戦術」創案の
祖父、山屋他人海軍大将の遥かな日の想い出


山屋敬介(34法)

★海軍大将だった祖父の名前「他人(たにん)」は実名です。私が直孫と分かると、どなたからも名前の由来を尋ねられます。明治維新まで本州北部の南部藩に属していた山屋家は、先祖代々子宝に恵まれず、養子縁組などで辛うじて家系図を繋げてきました。

★慶応2年(1866年)、曽祖父、勝寿が厄年42歳のとき、待望の男子を授かりました。この後継ぎを元気に育てるため、昔の風習で神社の門前に捨て子し、拾い直す際、曽祖父が「仮の名前を付けるなら、初めから赤の“他人”でいい」と命名したそうです。

★その甲斐があって、祖父他人は、海軍軍人になり、攻玉社の後輩で11歳年下の丹羽貞子と結婚、4男5女に恵まれました。洩れ聞いた話だと、祖父は自分が乗っている軍艦の帰港日と入る港を祖母貞子に電報で知らせ、祖母はその都度、家族を増やしたようです。

山屋他人海軍大将

◆先輩山屋他人創案の「円戦術」を発展させた秋山眞之の「丁字戦法」

★話変わって、明治29年ごろ、海軍大学校の将校科学生だった祖父は、時の東郷平八郎校長が学生に出した「従来の敵味方双方が単縦陣(艦隊がタテ型に並んだ戦闘隊形)で戦う方法でなく、敵をせん滅することができる戦法を作れ」と言う課題に応えて、のちに「円戦術」と呼ばれるようになった戦闘隊形の作戦を編み出しました。

★3年後、こんどは海軍大学校の教官になった祖父が、この新しい艦隊編成の戦法を海軍戦術として講義しました。このとき連合艦隊の作戦参謀だった秋山眞之少佐が、早速、大演習で「円戦術」を実行した後、祖父の後任の海軍大学校の戦術教官になりました。そして、海軍兵学校の5年後輩の秋山さんが、日露戦争で実践に使えるまでに仕上げたのでした。祖父の考案した「円戦術」は、秋山さんによって「丁字戦法」として完成したのでした。

★その考え方は、敵味方の艦隊が、縦陣のままで砲撃し合う従来のやり方から、敵の先頭艦に対して、味方の艦船が円形に艦列を描きながら集中砲火を浴びせ、次々と沈めて行く戦法です。相手の艦隊がどのような艦列でこちらに向かって来るかをシッカリと見定める。ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った東郷連合艦隊司令長官は、丁字戦法を把握した上で日本海海戦の采配を振るい、日本の勝利へと導いたのです。

★話が日本海海戦の1年前に戻りますが、新しい戦法の演習を繰り返した後、日露両艦隊が黄海で戦ったとき実戦に丁字戦法を使ったのですが、このときは失敗しています。ですから東郷司令長官や秋山作戦参謀にとっては、日本海海戦での作戦は、背水の陣だったと言えるでしょう。


◆「丁字戦法」は、味方艦隊全体が統一行動を必要とする高難度戦法だった

★丁字戦法は、波の高さ、天候、敵艦隊の船の速度、相手の隊形、それへの味方の対応、全てがまず図面上で解析した上で、計算値を実態に合わせて読み取り、味方の艦隊全体が統一行動を取らなければ、勝つことができない戦法だったのです。

★祖父は、その後2度に渡り海軍大学校長、第1次世界大戦では当時世界最強と言われた戦艦金剛に座乗して南洋群島の鎮圧に当りました。その後、連合艦隊司令長官などを歴任し、大正12年に退役しました。

★それにしても日本海海戦の勝利は、日清戦争で巨額の戦費を使った直後であり、列強が餌を求めて近づいて来る中での勝利でした。日本にとっては、いろいろな幸運が重なって勝利を得たのが、祖父も関わった日露戦争だったと思います。

★昭和に入り、2.26事件から4年後の昭和15年9月、祖父他人は75歳の生涯を閉じました。海軍軍人で内閣総辞職をしたばかりの米内光政前首相が葬儀委員長を務めて、海軍葬が行われました。


◆幼かった孫から見た祖父の記憶

★昭和10年、父の八郎が満鉄社員だったために大連で生まれた私自身の記憶体験に基づく祖父の想い出は、断片的で不正確な記憶にすぎませんが、2点ほど印象に残っていることがあります。そのひとつは祖父がラジオをよく聞いていた姿です。後で教えてもらったところによると、ほとんどがニュースだったようです。

晩年の祖父、他人 祖母、貞子

★祖父に関する二つ目は、草花を中心に庭いじりが好きだったことです。たまに大連などから世田谷区下北沢の祖父宅を訪れると、いつも庭に出て土いじりをしている海軍大将の姿に幼いながらも不思議な感じがしたのを覚えています。

★祖父他人は、退役後、公職には一切つかず、自宅に訪ねてくる客を相手に座敷の座布団に正座して、両腕を着物の袖に入れ、目を瞑ったまま相手の話を最後まで聞いた上、ゆっくりと自説を述べていたことです。

★幼かった私はと言えば、祖父宅を訪れたときは、いつもはしゃいで部屋から部屋へと飛び回り、祖父からはうるさがられていたようです。家人の知恵で鍋物用の穴が真ん中にある大きなテーブルに入れられ、ベソをかく私を尻目に祖父たちはやっと安心して食事や家族の団欒を楽しんだと聞きました。

★家族が食事をしていたときの面白い話を一つ。祖父が茶碗の中で入れ歯を洗った後、末っ子の寿々子叔母に「このお茶を飲んだら、欲しがっていたピアノを買って上げるよ」と言ったところ、寿々子叔母が即座に「絶対にイヤー」と断り、家族全員の爆笑になったそうです。

★寿々子叔母は、成人後、祖父の海軍兵学校の同期生で、入学から卒業まで成績トップで過ごした江頭安太郎中将の三男で後に大手化学工業会社の社長を務めた豊に嫁ぎました。(09.12.16.投稿)

江頭安太郎中将 海軍兵学校第12期卒業記念写真
(前列右端山屋他人、後列右から4人目江頭安太郎)

本稿で使用した写真は、すべて『謙譲の人 海将山屋他人の足跡』(発行:枝栄会)から転載しました。
(管理人注:江頭豊、寿々子夫妻の長女、優美子さんの夫、小和田恆氏は、外交官出身で現在、国際司法裁判所所長を務めている。小和田夫妻の長女は雅子皇太子妃。)





始まった大河ドラマ『坂の上の雲』



藤田昌煕(38文)

★NHKの新大河ドラマ『坂の上の雲』が始まりました。
第1回を観るかぎり主役の秋山好古・眞之兄弟、正岡子規がなかなか良く、今後の展開が楽しみですが、聞けばこのドラマ、3年に亘って放映されるとのこと。そんなにながく引っぱって、肝心の”日露海戦”まで視聴者を惹き付けられるか…些か心配になりますが、海外8カ所で撮影したというから、これまでにないスケールであり、司馬遼太郎作品の良さが出れば…と期待しております。

秋山好古 秋山真之 正岡子規

★ところで、このドラマの舞台は、明治時代。「明治は遠くなりにけり」とはいえ、時代劇の世界に比べると、まだまだ現代に近い。今回、ドラマ『坂の上の雲』のスタートにあたり二人の方から貴重な情報を頂戴しました。

★まず、大学の先輩で小平稲門会員の 山屋敬介さん(34法)から頂いた資料。
それによると、山屋さんのお祖父さん(山屋他人、海軍大将)。この方は海軍兵学校で東郷平八郎の5年後輩、秋山眞之の10年先輩にあたるが、秋山眞之が考え出したという「丁字戦法」の基になった「円戦術」を生み出したという。「日本海海戦」を勝利に導いたあの「丁字戦法」の前に「円戦術」などという戦術があったとは知らなかったが、じつは、眞之は山屋のこの「円戦術」を発展させて「丁字戦法」をあみ出したわけで、まさに驚きです。

山屋他人
日本海海戦
戦艦「三笠」の艦上の東郷平八郎連合艦隊司令長官{中央)
加藤友三郎参謀長(中央左)、秋山真之作戦参謀(中央右)

★『坂の上の雲』の著者 司馬遼太郎氏は、資料を重視し、執筆に際しては徹底的に資料・文献に当ったと言われています。となると、この「円戦術」についても知らない筈はないと思うが、小説の中に「円戦術」のことは出てこない。何しろ機密文書であり、ひょっとしたらご存じなかったのかも…。もし知っていたら、あの『坂の上の雲』の「日本海海戦」の部分は違っていたかも知れませんね。

★次は、後輩の内藤淳一郎君から頂戴したメール。
 「『坂の上の雲』第1回目の放送で、秋山真之がお城に花火を上げ官憲に絞られる場面がありましたが、あの時、自宅から火薬を持ち出したのが櫻井眞清。うちの嫁さんの曾祖父にあたります」櫻井眞清は、真之を慕って明治海軍に入り、その後、東郷平八郎の副官になったということです。

櫻井眞清が海軍大佐当時、艦長として乗艦した巡洋艦笠置
                                         (上記の写真:すべてWikipediaから転借)

★「明治は遠くなりにけり」…どころか今も関係者は多く、歴史上の出来事にもまだまだ新しい資料や事実が出てきます。そんなことを考えながら、これからドラマ『坂の上の雲』を観ていくのも面白いですね。
                                                  (09.12.1.投稿)




満州に従軍した旧日本軍砲兵から一言

守本 良男(兵庫県在住 88歳)


拙文「始まった大河ドラマ『坂の上の雲』」を投稿したところ、田舎(兵庫県)の今年88歳の親戚(守本 良男)から下記のメールが届きました。64年前の終戦時、砲兵として満州に従軍していた人物で、日露戦争を考える上で示唆に富む証言と思い、転送、投稿させていただきます。(藤田昌煕)


★ドラマ『坂の上の雲』。見落としのないよう日曜、土曜、2回観ております。小説『坂の上の雲』、私も熱中して読みました。60数年前、従軍先が満州。私は、砲兵で作戦と観測をやっていました。あの広い満州の平原で演習中、隊長に命じられ砲を撃ちました。風、温度、気圧、初発射弾、方向、角度などを諸元といい、これを即座に測定して発射しますが、なかなか当りません。
一番命中率のよかったのが2,000m位だったと記憶しています。

当時の関東軍司令部(新京市=現在の長春市)
Wikipediaから転借

★日本海海戦では、先頭の司令艦敵艦を2000mまで引き寄せ各艦から一斉射撃してロシア戦艦を撃沈させました。秋山真之の「T字戦法」は、じつに理にかなった戦法だったと感心しました。しかし、動くもの同士の射撃の難しさは大変だったろうと思います。横一列に並んで先頭の司令艦に集中射撃した結果、敵艦隊は大混乱に陥った。「戦勝の要は先制にあり」と陸軍でもよく教わったものです。

★ヨーロッパから遥々喜望峰を回り、内紛まで起こしながら漸く辿りついたロシア・バルチック艦隊と、「皇国の興廃、この一戦にあり」と待ちかまえた日本。勝利の女神が日本についたのはしあわせでした。

★奉天の戦いで、日本の騎兵集団が世界で一番優秀とされたロシア・コザック騎兵を打ち負かしたのは、秋山好古率いる騎兵集団の働きによるものですが、あの戦いも長引けば負けていただろうと思われ、感無量です。

★さらに、ポーツマスで日本が戦勝国の立場で講和条約が結ばれたのもさいわいでした。まさに、明治人間の偉大さを感じます。
「明治は遠くなりにけり」…と言われますが、私の世代ではすぐそこ に見えます。

★今回のNHKの『坂の上の雲』。ドラマ化するにあたっての制作者の苦労話、前例をみない巨額の制作費、関係する方々の貴重な逸話…などなど、いろいろ聞かせて頂き、またとないチャンス、見落としのないよう日曜、土曜、2回観ております。ありがとうございました。(守本 良男)




敗戦前後と早稲田を回顧する




板津直孚(31文 西東京稲門会)

★私が敗戦に直面したのは、旧制中学2年のときだった。長野市内は、一部で空襲を受けたが、大きな被害は免れた。しかし、食料はもちろん身の回りの物資も欠乏して、相当逼迫した状態だった。学校生活では、2年になってからは飛行場設営の作業、飯綱山麓での開墾、燃料確保のための薪背負いによる運搬などで、授業がかなり浸食された。

★担任は、当時27歳の英語の教師だった。「アメリカと戦っているからこそ、確実な情報を得るためにも英語は絶対に修得しなければならない」と説き、極めて熱心な授業が行われた。この教師は戦後、「日本は、精神力ではアメリカに勝っていたが、物量の大きさで負けたのだ、という議論がある。しかし、それは間違いだ。日本は、精神力でも負けていたのだ。原子爆弾を作るのに精神力はいらないのか?膨大な物資を積み上げただけでは、原爆は作れない」と言っていた。そして、戦後の日本の将来についても、農地改革、その他民主化が進む過程を的確に予見していたのを思い出す。

★敗戦の前後、東京から疎開して来る生徒が大勢いたが、都立4中、5中、高等師範(現筑波大学)の付属中学などから来た生徒は特に優秀で、彼らに接したことは、“井の中の蛙”になりがちな地方の中学生には、よい経験だった。

◆アルバイトで学資を蓄えて早稲田へ

★ところで、私が早稲田に入学したのは、昭和27年である。前々年の25年には朝鮮動乱が勃発して“朝鮮特需”などという言葉もささやかれ、多少経済的に余裕が出たやに言われた時期だったが、まだまだ食べる物にも事欠く状態だった。私の場合、父が職業軍人だったことから公職追放にあって収入の道を断たれていたので、ことに厳しい経済状況だった。それで高校卒業後2年間、図書館のアルバイトで学資を蓄え、大学に入学した。

軍用機修理も朝鮮特需
Wikipediaから転借

★入学後も映画のエキストラなどをしたり、休暇中は郷里へ帰ってアルバイトに精を出した。入学式のとき、谷崎精二文学部長(作家、谷崎潤一郎の実弟)が「終戦直後は、軍服を着た学生がたくさんいたが、いま見渡すと一人もいません」と話しをされたが、当の私は父の軍服を着て式に出ていたのだった。

★あの当時の生活のことは、いま思い出しても、けっして愉快なものではない。作家の五木寛之は、われわれと同期の入学で、そのころの早稲田のことを書いているが、重なることが多い。ただ授業の方は、新鮮な気持ちで受けていた。それも専門科目ばかりでなく、当時あまり学生に評判のよくなかった教養科目や語学授業で懐かしく思い出されるものが多い。思いつくままに上げてみよう。

◆思い出の講義あれこれ

★栗田直躬先生の東洋思想は、西洋的な思想を充分に咀嚼したうえで組み立てられていることが分かり、深みを感じた。あるとき「東洋諸国が、なぜ西洋諸国に後れを取ったのか」と質問したことがある。栗田先生は「東洋の停滞性をウィットフォーゲルなどは、治水工事が政治の中心になって、専制政治に結びついたからだ、と言っているが、中国などでも周辺に優秀な文化民族がいなかったことが、要因になっているのではないか」と説明された。津田左右吉も同じような見解を持っていたようだ。

★福井孝順先生の東洋思想も印象深い。仏教について、けっして抹香臭いものでなく、きわめて合理的な人生哲学だと説いた。人間の苦悩をすべて取り上げ、その原因を探り、それを解消して解脱する方法論を説く精神医学のような面を持っている、という意味のことを話された。

★因縁ということについても、人生で遭遇するすべての事象は、大きな背景から起こる間接原因と、きっかけともいうべき直接原因から起こるが、そのことを指すのだと言われた。また仏教は、究極的には無神論の立場に立つ思想だとも話された。そうした仏教の特長をけっして押しつけがましい表現でなく、至極客観的な表現で説かれた。

★私は「そのような合理的な思想に立ちながら、仏教を信じている国が、なぜキリスト教の西欧諸国の後塵を拝したのでしょうか」とあるとき質問した。先生は「いろいろな要因はあるが、仏教の思想の中に、厳しく二者択一を迫られたとき、ともすれば安易な妥協に傾きやすい要素が潜んでいるからだ」と説明された。先生はまた、「東京に住んでいる恩恵の一つに、美術館などでよい作品を見る機会が多いことが上げられる。だからできるだけ利用するように」とも言われた。私は、ずっと現在に至るまでこの教えを守っている。

◆語学授業のテキストで接した忘れえぬ短編小説

★語学に関しては、1年のときの英語は、倉橋健先生が担当された。若くてシャープな印象を受けた。そんな印象からはちょっと意外だったが、アメリカの作家、ウィリアム・サローヤンの作品『わが故郷』(My Home)をテキストにされた。やや牧歌的な内容だったが、何か心にしみた。

W.サローヤン J.ギッシング A.マルツ
Wikipediaより Wikipediaより Wikipediaより

★碩学の市川又彦先生が使われたのが、イギリスの作家、ジョージ・ギッシングの『蜘蛛の巣の家』だった。ギッシングの随筆がチャールズ・ラムの随筆とともに好きで、その穏やかな短編小説も私の好みに合っていたが、級友たちの様子には、なにか物足りない感じだったようだ。

★その後、若い講師の岩田という先生が、米作家、アルバート・マルツの『The happiest man on earth』という作品をテキストにされた。この作品は、大恐慌当時の深刻な不景気の下、職を求めていた男の話で、その男がやっと手に入れたのがニトログリセリンを運ぶという危険きわまりない仕事だった。このときの心境を描いたものだが、緊迫感のある、どんどん引き込まれていく作品だった。級友たちも卒業後もよく憶えている小説だ。(マルツは、ハリウッド映画の脚本家としても『裸の街(48年)』『真昼の決闘(69)』などの脚本も手がけている。)


★第2語学のフランス語は、最初は文法を中心とした基礎授業で、その後ドーデの『アルルの女』『最後の授業』、フローベルの『巴里の憂鬱』などを講読した。少ない授業時間で修得させるために、実に適切な教材を選んでくれた先生に感謝している。

◆全面講和か単独講和か

★私が在学した当時の学生たちの政治的な思想状況は、「全面講和か単独講和か」に表れているように鮮烈な対立を見せていた。大内兵衛、清水幾太郎、南原繁など左派の論客は、全面講和を唱え、一方、蝋山政道、矢部貞治などが単独講和を主張していた。マスコミも雑誌『世界』『中央公論』『改造』などで両者が激しく論じ合った。

サンフランシスコ講和条約に調印する吉田茂首相
1951年9月8日
Wikipediaから転借

★私は、当時の日本が置かれた状況と立場から、単独講和でもやむを得ないと考えていた。さりとてアメリカ一辺倒という訳でもなく、西側陣営にありながらも、英国社会主義や北欧の福祉国家の理念を加味しながら、独特の平和国家ができないものかと思っていた。

★早稲田の日々からすでに60年近い歳月が流れた。その間にソ連の崩壊、東西ドイツの統合、改革開放後の中国の躍進、アメリカにおける黒人大統領オバマの就任、日本でも鳩山民主党政権の登場など国際情勢は大きく変わった。しかし、私の現在の心境を述べるなら、基本的には学生だったあの当時とあまり変わらないような気がする。(09.11.2.投稿)



戦争と私


板津直孚(31文 西東京稲門会)

◆戦時一色の幼児期

★私が生まれたのは、昭和6年(1931年)で満州事変の勃発した年だから、昭和20年の敗戦までの15年間、大きく見ると戦争の時代だった。幼少時代を戦時一色で過ごしたことになる。もちろん、15年間を同じ戦時色で過ごしたわけではない。はっきりと戦時という自覚をもって思い出す時期が3つある。

①父が職業軍人として出征していた時期。満州事変後、匪賊討伐という名目でゲリラに対処する治安維持に当っていた昭和10年のほぼ1年間。 
②日華事変の勃発後、昭和14年3月から18年8月まで父が北支、南支を転戦していた約5年間。
③戦局が厳しくなって物資が極度に欠乏し、戦争の前途に不安を感じた昭和19年から20年の敗戦に至る約1年半。

◆日華事変の勃発

★物ごころがはっきりついてから思い出すのは、日華事変の始まったころだ。まだ小学校にも入らない6歳のとき、盧溝橋事件(昭和12年7月7日)が起きたということは、幼かった私でも何か感触があった。そのとき、私の4つ年上の姉が富山師範付属小学校のときの担任だった今川という先生が「支那との間で事件が起きたが、これは世界大戦になるかも知れない」と言ったと話してくれたのを憶えている。

盧溝橋上の国民革命軍(中国国民党軍) 現在の盧溝橋
wikipediaから転借 wikipediaから転借

★師範の付属には、優秀な先生が多かったそうだが、それでも一介の小学校教員が、特別な情報があったわけでもなかろうに、そのような見方、予測ができたのか、いまも私はその洞察に敬意を表している。

◆避けたかった上海への戦火の飛び火

★そのころ父は、帰宅が遅くなって真夜中になることもあった。後から聞いたことだが、盧溝橋事件などが起きて、華北に戦火が広がろうとしている状況の中で、父たち軍は事件が上海に飛び火しないことを切に祈っていたという。さまざまな想定をしながら状況を観察していたそうだ。

職業軍人だった父

当時、父は富山の三十五連隊の隊付きの中佐であった。盧溝橋事件の5年前の第1次上海事変で、三十五連隊は動員され、父のすぐ上の実兄が作戦に大隊長として従事、苦戦をしたのだった。

★上海は、列強が租界を作って見張っており、圧倒的多数の民間人の中に識別しにくい形で兵士が堅固な陣地を敷設している。したがって強力な戦力の発揮しにくい処であった。その後5年の間にドイツの技術者の指導のもとに陣地が作られ、、要塞化しているとの情報もあり、日本軍としては上海での作戦は何としても避けたいと念じていたのだった。

1920年の上海・九江路 1928年の上海外灘(バンド)地区
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★上海に戦火が飛び火すれば、必ず第九師団に動員が下令され、そうなればその配下の三十五連隊は必然的に動員されると判断されたのだった。父は、連隊長の命で金沢の第九師団に出張して、見通しを聞きに行ったそうだ。第九師団では、「中央は上海に飛び火しないようにあらゆる力を振り絞っている」と説明したという。事実、参謀本部の石原莞爾作戦部長は、必死に上海へ戦火が広がるのを避ける努力をしていたのだった。

石原莞爾作戦部長
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◆戦火は上海に及び、予想を超えた犠牲

★上海での作戦だけは避けたいという思いにも関わらず、第九師団にも動員が下令された。多数の邦人居留民を抱え、排日、侮日の嵐の中にあって、一触即発の状況では、少数の陸戦隊では治安を守るという訳にもいかず、動員令は発せられたのだった。当然のことながら配下の第三十五連隊も出征することになった。結果は、予想通りというか、予想をはるかに超えた非常な苦戦を強いられることになる。父は、この上海作戦のときは、留守部隊の隊付き中佐として部隊長の補佐に当った。

★上海作戦が悲惨だったことは、学校にも上がっていなかった幼い私もはっきりと記憶している。昭和12年の正月、父の部隊の将校たち20人くらいがわが家に挨拶にやってきた。約1カ月の戦闘で、その人たちの中の6人くらいが戦死したのだった。近くに住んでいて、わが家との交流もあった将校も戦死して、その報を受け取った奥さんが目を真っ赤にしておられたのを思い出す。

★そんな遺族の悲嘆を無視するように当時の地方新聞は「夫人は、毅然とした態度で健気にも語った」といった記事を書いていた。これは母から聞いた話だが、お寺で慰霊祭が行われたとき、若い未亡人が居合わせた参列者全員に聞こえるくらい大声で号泣していたという。上海の作戦から南京占領へと激戦が続いたのだった。

◆作戦を避けようとしたことが、却って裏目に

★今にして思えば、あまりに上海での戦闘を避けようとしたことが、かえって犠牲を大きくした面もあったようだ。上海での作戦が避けられないものだと初めから考えていたら、いきなり杭州湾に上陸して背後から上海に出れば、あのような悲惨な犠牲を払わなくてもよかっただろう。地図を見れば、素人でもこのことは分かるはずだ。事実、作戦部長が石原莞爾から下村定に代わると、彼は杭州湾の上陸作戦を直ちに実施して、上海の作戦に止めを刺すことになった。

下村定作戦部長
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★ここで一言書いておきたいことがある。それは日華事変勃発当時、「一突きすれば支那(中国)は手を上げるだろう」と拡大路線を突っ走った一群の人間がいたのではないか、ということである。ただ現場で戦う軍人の中にも慎重な人はおり、上海での作戦はとにかく避けたいというのが本音だったことだ。これが現場で衝に当る人々の自然な心情だったと思う。

★父は、その後、昭和14年3月に北支の独立混成旅団の大隊長、さらに翌15年7月、南支の連隊長として出征、昭和18年8月に長野連隊区司令官として内地に帰還するまで、私たち家族には父親のいない寂しい生活が続いたのだった。

◆梅雨の晴れ間の一瞬


★昭和12年に日華事変が勃発した後、昭和14年いっぱいくらいまで以降物資が少なくなってきた。そうした中で庶民の生活状況も変化が起き始めていた。少し前の不景気の時代によく見られた乞食の姿が目につかなくなった。押し売りも来なくなった。私の記憶では、毎週水曜日になると、なぜかわが家に押し売りがやってきて暗い思いをしたものだが、それがぱったりと来なくなったのである。

★そして、家の建築が多くなった。私は富山市内の住宅地に住んでいたが、家の周りにあった空き地にも数件の家が建った。市内のあちこちに文化住宅という名の住宅が次々と建てられ、新聞の広告のちらしも登場した。娯楽面では、退廃的な流行歌が歌われなくなった。ラジオでは、戦時の国民歌謡が流れるようになり、それでも中には多少芸術的な香りのするものもあった。

★戦争という大きな犠牲をともなった“公共事業”で消費が活発になり、経済を潤した面があったのだろう。富山には不二越という非常に大きな軍需会社があり、敗戦直前は、大がかりな学徒動員も行われて、市民の1軒に1人は不二越に勤務していると言われた。

★日華事変以前、比較的平和ではあるがデフレの不景気に苦しんだ時代に比べると、戦争景気だったのだろうか。太平洋戦争の敗戦前後の厳しい物不足の時代とも違う、多少ほっとした時代だった。言わば梅雨の間の一時の晴れ間の時代、あるいは嵐の前の静けさの一瞬とでも言える平穏な時期だった。まあ、あくまでも前後の時代と比べると、多少ましだったというほどのことだが。

★軍需会社、不二越の工場の敷地の近くに清水町というかなりの広さを持った町がある。ここはその名のように大変に綺麗な水の湧く地域だった。立山連峰からの伏流水が地下水となっていつもこんこんと湧き出ていた。ちょっと地面を掘れば、冷たい清らかな水が湧き出るので、ビールや西瓜を冷やしたものである。ところが不二越が出現して、生産がどんどん増えるのと反比例するように清水はだんだん湧き出なくなったのである。


立山とその周辺の山々
wikipediaから転借

◆大東亜戦争の勃発、学校全体は興奮の坩堝

★昭和16年12月8日、私が小学校の4年生のときだったが、大東亜戦争が勃発して、学校全体が興奮の坩堝と化した。日本軍がハワイを奇襲して大戦果を上げたとか、マレー沖海戦でイギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈したとか、マレー半島、フィリピン、蘭印(インドネシア)の地をわが軍が進撃しているというニュースが次々と報道されるたびにほとんどの先生たちが湧き立っていた。

炎上するアメリカ海軍の戦艦「アリゾナ」(真珠湾) マレー沖海戦で日本軍機の攻撃を受けるイギリス海軍
の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」
wikipediaから転借 wikipediaから転借

★盧溝橋事件のときに一早く世界大戦を予想した今川先生がどのような反応を見せたか、私はそれを知らないのがいまも残念だ。たまたま大東亜戦争が始まった少し後のこと、国語の授業で『ホノルルの一日』という学習をした。文字通り平和な美しいハワイの生活を映し出した一文だった。真珠湾攻撃とあまりにも差があるので、私は感想文に「こんなに美しい平和な島の真珠湾で、敵艦撃沈の大戦果が上がったということを知って、何か感慨深い」と書いたのだが、それを見た先生は、ただ「ええっ?」と言っただけだった。

★小学4年生の私が感想文を書いたときの気持ちは、反戦的というのではなく、真珠湾の戦果を喜ばないわけでもなかった。ただ何かちょっと違和感のようなものを子供心に感じて、それしか書けなかっただけである。

◆皇室崇拝主義者の先生の意外な側面

★私の感想文を読んで「ええっ」と言った担任の先生は、熱烈な皇室崇拝主義者で、「日本書紀」や「古事記」を徹底的に読んでいるような人だった。国史で承久の変の話をするときは、ほんとうに涙を流していた。そんな彼の思想は、授業以外にも至る所に表われていた。ところが不思議なことだが、日本軍の戦果が発表されたとき、ほかの先生たちのように飛び上がって喜ぶようなことはなかった。

★もちろん、日本が起こした大東亜戦争を否定的に見ていたわけではないが、シンガポール陥落のときも勝利の喜びを表わす代わりに「兵隊さんは、汗水流して、どんなに苦労されたろうか」という反応を示した。小学生の生徒から見ても、ほかの先生たちとは温度差のあることが感じられたのである。担任の先生の心の内を聞いてみたいが、いまになってはその術のないのが残念だ。

◆ドイツの合理的な行き方に憧れた

★小学生の私には、担任の先生の思想に対して、あまりいい印象を持てなかった。少年の私にとって、戦闘は知恵の限りをつくした巧妙な作戦で、新兵器を駆使して敵をせん滅すべきではないか、と思っていた。その点でドイツ人は非常に合理的で勤勉、清潔な特性を持っている。学問とくに医学が発達していること、強い軍隊にも好意を感じていた。

★私は軍国少年というわけではなかったが、ニュース映画の中で「プロイセンの栄光」という行進曲に合わせて行進して来る兵士たちを帽子を被った軍服姿で見守るヒットラーの横顔の印象は、悪くはなかった。ただ、無帽で大声を上げてわめきたてるように演説をするときは、チャップリンを連想して、ちょっと失望した。

1833年のアドルフ・ヒトラー アウシュヴィッツ第2強制収容所(ビルケナウ)
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★あのとき、アウシュヴィッツでユダヤ人を虐殺していたことを知る由もなかった小学生の私には、経済恐慌のときにアウトバーンを建設して多数の失業者を救済したということを大人たちから聞いて、拍手を送りたい気持ちだったのである。私のような子供だけでなく、当時は大人の多くが同じような印象を持っていたのではなかろうか。

◆親独の旗を振りながら、ナチスの実態を知る同級生の父

★ところが意外なことはあるものである。私の付属小学校の友人のお父さんが耳鼻咽喉科の医者で、大きな医院を開業していた。友だちのお父さんは、当時、日独親善のために設立された日独文化協会の理事を務めていた。この協会は、日独のニュース映画の上映やドイツのさまざまな情報の紹介をしていた。

★このお医者さんの家の近くに、園長として幼稚園を経営しているドイツ人がいた。園長は、そのお医者さんと親しくて、しょっちゅう医者宅を訪ね、食事もして行く付き合いをしていた。彼はキリスト教の宣教師で、旧制富山高校でドイツ語も教えていた。ドイツでヒトラーの遣り口に反発して、半ば国を追い出されるような形で日本にやってきたのだった。同級生の父親は、日独親善の旗振りをしながらも、口をきわめてヒトラーの非道を罵るドイツ人の園長を通じて、ナチスの実態を知っていたのである。

◆ドイツに好意を寄せつつも、魅せられた英国空軍機スピットファイア

★戦時中の小国民(少年)の多くがそうであったように、私も諸外国の飛行機に関心と憧れを抱いていた。当時、{児童年鑑」という本があって、世界の軍用機が写真入りで出ていた。どういうわけか、私はイギリスの戦闘機スピットファイアに言い知れぬ魅力を感じていた。迷彩色を施した機体を他のどこの国の軍用機よりも、ほれぼれとするような気持ちで魅入っていたいたのである。

★非常な秀才で美的感覚も優れていた友だちは、「ドイツの戦闘機メッサーシュミットがいい」と言っていたが、私はドイツ機の何かいかつい感じが好きになれなかった。やはり悠然と飛行しているように思えるスピットファイアに惹かれたのである。

スピットファイア Mk XVI メッサーシュミット Bf 109 G-6
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★そのときから60年近い歳月が流れた。私は、中高一貫校に教師として38年間勤めた。その学校の文化祭で飛行機好きの生徒たちの同好会「航空機研究会」が、かなりの時代に渡る民間機、軍用機の模型を多数陳列した。それを指導したのは、研究会OBで当時横浜国立大学工学部の学生だった。彼は高校卒業後も同好の後輩たちの世話をしていたのだ。

★飛行機について実に広くかつ深い知識を持つこの生徒OBに、私は「ここにたくさん陳列されている飛行機の中で、どの機が一番美しいかね」と聞いてみた。彼は30秒ほど考え込んでいたが、「やはりスピットファイアじゃないでしょうか」と言った。昔の飛行機少年は、「わが意を得たり!」思わず心のなかでニヤリとしたものである。

◆長野へ転校、ここでも戦時一色

★昭和18年、父が5年間の中国大陸での戦闘勤務から解放されて内地に帰還、長野連隊区司令官に就任した。それでやっと私たち家族は父とともに暮らすことができるようになった。その年の11月、私は富山師範学校付属国民学校から長野師範学校付属国民学校に転校した。6年生の2学期だった。ここでも戦時一色、毎日巻き脚絆を着けて登校した。学校では、手旗信号の授業時間があり、「ワレキシュウニセイコウセリ」などという伝達訓練を受けた。生徒たちは、そん授業を楽しんでいた。

★付属国民学校の校長は、師範学校長が兼務していた。この校長は、一高、東大出身の秀才という話で、水戸学の心酔者だったようだ。国民を国家意識に目覚めさせなければならない、という強い信念を持ち、そのための教育者を養成する師範学校を奉職先に選んで、邁進してきた人物だったらしい。奇しくも私が学齢に達し、入学した富山師範学校付属小学校(昭和16年3月から国民学校令により小学校は国民学校と名前が変わった。)でも、この校長先生だった。


★式典は師範学校の生徒といっしょに行われたが、校長あいさつなどで国家意識称揚といったことは、特にかんじられなかった。ただ、儀式は非常に荘重な演出で行われ、校長が入場して来るときは、陸海軍の将官が入場するときと同じような曲が流れる中で、われわれ生徒は彼を迎えたのである。当時、師範学校の校長は、将官と同じ勅任官だったので、同じような格式の曲を演奏したのだろう。

★この校長は、父に「信州人は、信州の教育を自慢するが、本物ではない」と言ったそうだ。具体的にどんなことを指したのか分からないが、長野県では当時、県内のどの学校でも文部省の国定教科書とともに信濃教育会が編纂した教科書を副読本として使っていた。この副読本は、国定教科書がややもすれば一定の国家目標に持って行こうとする傾向が見られたのに対して、ローカルなカラーが表われていたように思う。とくに国語などでそうした点が感じられた。つまり、大正デモクラシーの教育の余韻のようなものが垣間見られたのである。当然ながら、当時私が教わった先生たちの多くは、校長の教育観に否定的だった。

◆級友の運命を変えた担任の助言

★私の担任は、きわめて植物に明るく、後に昭和天皇が長野県に行幸された際、野山散策の説明役をするなど大学教授も務まるような博識の先生だった。この先生は、大東亜戦争の戦局が容易ならないものだということを説明するとき、こんな風に話した。「日本は真珠湾で大戦果を上げたと言うが、ハワイを占領したというならまだしも、停泊していた軍艦を攻撃しただけで帰還している。アメリカは、沈められた軍艦は引き揚げて再生させるだろうし、そうしなくても生産力の高い国だから、すぐに艦船を建造して、いま日本に厳しい反撃を加えているのだ」と言った。

★私の仲の良かった級友に宮大工の息子がいた。お父さんは非常に腕の立つ職人だった。級友は中学(旧制)には進まず、当時の国民学校高等科へ行き、そこを卒業したら宮大工の修行をすることになっていた。高等科に進んだ後、彼は担任の先生から満蒙開拓義勇軍に行くように薦められたという。それで友だちは、さきに紹介した6年生のときの担任に相談したそうだ。元担任の先生は[君が将来やる宮大工の仕事は、満蒙開拓義勇軍に劣らぬ大事な仕事だ。だから満州には行くな」と止めたという。もし、先生の助言と引き止める言葉がなかったら、悲惨な運命が級友を待っていたのである。友人は、その後、大工の修業を積み、日本建築の世界で頭角を現した。いまも元気で、よく講演を依頼されているという。

◆旧制中学入試の口頭試問で悩む

★昭和19年2月、私は長野中学(旧制)を受験した。当時は、内申書、口頭試問、身体検査で合否が決まった。私は、口頭試問で「日本は、どうして大東亜戦争に踏み切ったか」と聞かれることを想定した。私は「アメリカやイギリスからの数々の圧迫があったこと。そうした欧米列強からアジアを守る大東亜共栄圏を確立するための開戦であり、欧米の植民地となり、搾取に苦しむアジアの人々を解放する戦だ」と答える用意をした。

★戦争の専門家である父に「このように答えようと思うが、いいだろうか」と聞いてみた。父は即座に「自存自衛のために開戦したのだ、の一本で行け」と言った。そして「戦争は、その国が生きるか死ぬかの余程のときでなければ起こせないものだ。他の国のために戦争をするなどということは、あり得ない」と説明してくれた。そして「自存自衛の内容については、出来るだけ触れるな」と付け加えた。

★私は、父が最後に言った助言について、日本軍の南部仏印進駐で石油を封鎖されたことに及ぶと話がややこしくなると思ったのか、と感じた。この時、私は父の示した答えに少し不満だった。父のこの考えは「日本の国だけが存続できればいい」という利己的なものに思えたのである。個人の場合でも、自分が犠牲になっても人を助けることがあるではないか。また、大東亜共栄圏の確立だって、大きな理想を目標にすることであり、決して悪いことではない、と思っていた。

★口頭試問で設問されるとすれば、学校が要求する模範解答は、父の言う答え方だけでは足りないのではないか、と私は心配だった。幸い口頭試問では、開戦の理由についての試問はなかった。戦争に関しては、「いま日本はどこの国と戦っているか」とだけ聞かれた。私は、入試に合格してほっとした。

★いまにして大東亜戦争を回想するとき、少年の日に考えた大東亜共栄圏の確立や欧米列強から搾取されていたアジアの人たちを解放するのが戦争の目的など、いかに空疎な思想、でっち上げ、そしてこじつけだったか、「他の国のために戦争をするなどということは、あり得ない」と言いきった父の言葉とともに実感するのである。

◆戦時体制下、的確に物の見方を教えた英語の先生

★長野中学に入学後、戦時色はますます強くなった。校長は、旧制松江高等学校の校長もした大物で、気骨のある人だった。しかし、大東亜戦争の意義には、まったく疑いを持っていないようだった。担当する[公民」の授業で、校長はいつもユダヤ人がいかに悪辣な民族かを口をきわめて語った。

★一方、当時27歳だった英語教師は「アメリカやイギリスと戦っているのだからこそ、相手の的確な情報を得るためにも、英語は絶対ものにしなければならない」と力説し、きわめて熱心な授業を展開した。この先生のことは、先に当「いなほ随想」(3集)に書かせていただいた「敗戦前後と早稲田を回想する」の中でも触れたが、敗戦のとき、「日本は精神力では勝っていたが、アメリカの大物量に負けたという声を聞く。しかし、それは誤っている。日本は精神力でもアメリカに負けたのだ。原子爆弾を作るのに精神力はいらないのか。物資をうず高く積み上げても原爆を作ることはできない」と説いた。戦後、この先生は、家業を引き継ぎ、紙店から出発して印刷、出版さらには情報産業にまで事業を拡大して、長野県内の企業が全体に沈滞していた中で、隆々たる社運を示す優良企業に成長させた。

◆中学校生活で薪背負い、開墾など厳しい作業に従事

★話を戻す。長野中学に入学して、1年生のときは春秋の農繁期の勤労奉仕を除くと、正規の授業が行われた。しかし、2年生になるときの春休みは、飛行場作りに駆り出され、朝鮮人労働者とともに土木作業に従事させられた。4月、2年生になると、飯縄山山麓の芋井村の原野の開墾作業、同村内にある学有林から冬期の暖房用の薪運び(薪背負い)をやらされた。ストーブに入る長さに切った丸木を10本ほどを強靭な縄で結わえ、背負って運ぶのだが、縄が肩に食い込み、容易な作業ではなかった。

★土地っ子の生徒の多くはは、家で使っている背負子を持ってきて、ひょいひょいとリズムを取りながら、顔を歪めることもなく運んでいた。一度、友だちに背負子を貸してもらって担いでみたら、安定して歩きやすくなったが、背負子の重みが加わって、見たほど楽ではなかったのを憶えている。とにかく、生まれて初めて味わった厳しい労働だった。私だけでなく、当時、薪運びに駆り出された生徒たちのみんなも同じ思いだったと見えて、『長野高校百年史』にも、薪背負いの記事とともに背負子をつけた生徒の写真が掲載されている。

飯縄学有林から薪を背負子で運ぶ生徒

◆玉音放送にショック

★昭和19年、サイパン島が全滅。翌20年3月、硫黄島の日本軍玉砕、6月には沖縄が陥落した。日本が次第に追いつめられていることは、内地の空襲が激しくなってきたことと重なり、ひしひしと感じられた。硫黄島の指揮官の栗林忠道は、長野中学の先輩で、学校葬が行われた。学校葬には、栗林指揮官と同級生だった先輩達も大勢集まり、彼の生徒時代のエピソードや思い出話を在校生の私たちも聞くことができた。いまもそのとき耳にした話が脳裏に焼き付いている。

★このころから本土決戦が叫ばれるようになった。中学生の私は、<支那(中国)もソ連も自国内に敵に攻め込まれているが、反攻巻き返しを仕掛けて戦っている。島国の日本も上陸してくる米軍を水際で相当な打撃を与え、山岳地帯に誘い込んで壊滅させることができないだろうか。>と本気で考えていた。父は当時、長野師団管区兵務部長の職にあったが、「本土にアメリカ軍を上げてしまうと、民衆が大きな打撃を受ける上に、一部は徹底抗戦で戦い、一部は米軍側について、分裂してしまう。ソ連や支那と違い、国土が小さいため不利だ」と言った。

★父は割合穏健な考え方をする人で、軍人としては比較的客観的なものの見方をしていたと思うのだが、和平とか降伏というようなことは口にしたことはなく、考えてもいなかった気がする。ただ、こんなことがあった。戦況が押し詰まったころ講演を依頼され、私に「大和朝廷が任那を放棄したのは何時のことか、正確な年代を調べてくれないか」と依頼したのである。父がなぜそんなことを聞いたのか、いまもって真意は分からない。

◆いち早く敗戦の情報を掴んだ人

★ポツダム宣言のことが新聞やラジオで取り上げられるようになったが、そんな屈辱的な事態だけは絶対に避けなければならないと思っていた。ところが8月15日、天皇陛下の玉音放送を大人たちに交じって聞いた私は、日本の敗戦を悟り、ほんとうにがっかりして、腰の立たないほど強いショックを受けた。そして、これから自分たちの生活がどうなるのか、ただただ不安だった。

終戦の詔勅 玉音盤(NHK放送博物館蔵)
wikipediaから転借 wikipediaから転借

★天皇陛下の玉音放送の受け取り方には、いろいろあるものだ。私は、8月15日に天皇が直接マイクの前に立って放送されるということを聞き、その内容はおそらく「近くアメリカ軍が本土に上陸すると思われる。全国民は一致して、これを撃退せよ」というものだろうと思っていた。

★佐久の御代田で大きな農業を営んでいる有力者がいた。地元で篤農家として慕われていた人で、私の一家も戦後の食糧不足のときにお世話になった。この篤農家の書斎には、たくさんの農業関係の本や万葉集などの古典も置かれていた。在郷軍人会の分会長もしていたからか岩波書店刊行のゼークト著『一軍人の思想』といった本まであった。

★この有力者は、玉音放送があると聞くや親戚の人を10数キロ離れた軽井沢へやって、何か情報がないか探らせたそうだ。戦況が逼迫した中でも、いやそれだからこそか大勢の要人が避暑に来ている。きっと何か情報が掴めるのではないか、と考えたのである。

★案の定、「日本の負けが決まった。東京では、その方向ですべてが進められている」という情報が得られたという。篤農家は、即座に15日の玉音放送は、天皇が日本の敗戦を国民に伝えるものだ、と分かったそうだ。このときから60年以上経て、私はたまたま御代田にあるメルシャン美術館で、ウイリアム・モーリスの展覧会を見る機会を得た。そのとき、篤農家の家がこのあたりにあったのを思い出した。

★土地のお蕎麦屋さんで食事をした際、店の主人にそんな話をした。すると店主は「そのお宅は、ここからちょっと行った所にいまもあります。あの家は現在もお大尽ですよ。高原野菜を大規模に作って、なかなか上手くやってます」と話してくれた。当主は、もちろん何代か後の人だろう。とにかく、どんな時代でも一瞬早く情報を得て、対応する人はいるのである。

長野中学(現長野高校の旧南校舎(現在 同窓会館) 長野高校同期会での筆者(手前右から2人目)


◆鬼畜米英から一転、アメリカ礼讃の時代に

★敗戦を境に新聞もラジオも、その論調がすぐに変わってきた。特にマッカーサー元帥とともに米軍の進駐が始まって以降、国内はアメリカ礼讃の風潮に染め上げられていった。全面降伏の敗戦でやむ得ない面もあったとは言え、鬼畜米英からアメリカ礼讃に、日本全体がほんの短期間で転換したのである。そんなムードに当時中学生だった私は[恥を知れ」という気持ちだった。もっと事実に即した意見や戦争への反省が出ないのかと思ったのだ。

★ただ、私はアメリカ礼讃をすべて否定していたわけではなかった。戦争の最中でも日本に比べてアメリカの生産力の圧倒的な高さは言われていたし、レーダーをはじめ数々の優れた近代兵器の開発や国民生活も日本よりはるかに近代化が進んでいることは聞いていた。だから、アメリカが決して侮れない国として見ていた。ベルリン・オリンピックのときも、アメリカが日本と比べて断然好成績だったのを知っていた。これは、アメリカ人が体力や運動神経はもちろん、国民の意欲、精神力も、決して見くびれないものがあると思っていたのだ。

★戦時中のジャーナリズムが、アメリカ人を「金持ちのどら息子」「金持ちの怠け者」視するとき、私は少年ながらも、そんなことはないと感じていた。アメリカに対する日本のジャーナリズムや国民の心理的風潮が、私には馴染めなかった。そして、戦後の思想の転換ぶりは、ひど過ぎると感じていたのである。

★戦後少し経ってからのことだが、フランス文学者の桑原武夫がちょっと面白いことを書いていた。鬼畜米英からアメリカ礼讃に何の抵抗もなく転換してしまう日本人に義憤を感じながらも、こうした特徴があるからこそ、明治維新後、短期間で欧米の先進国に追いつくことができたというのである。確かに尊王攘夷を唱えていた人間が何のためらいもなく開国、文明開化論者に豹変している。この軽薄さこそ、その時、その場の実利を求め、躍進へと繋がった、と桑原武夫は指摘するのだ。私は、日本人にそうした一面があるのだろうと思う。(10.1.5.投稿)



私のヒロシマ・ノート
~原爆投下64周年の年に寄せて~

松谷富彦(36文)

★私たち日本国民は、人類史上初めて、そして唯一の原子爆弾被爆国の人間として、今年(2009年)8月6日(広島)と9日(長崎)に64周年の原爆記念日(原爆忌)を迎えました。

★オバマ米国大統領は今年4月、訪問先のチェコの首都プラハでの演説で「アメリカは、核兵器を使ったことがある唯一の核保有国として、行動する道義的責任がある。核兵器のない世界に向けて具体的な方策を取る」と述べ、原爆を攻撃兵器に使用したアメリカの最高責任者として、初めて使用国の道義的責任を口にし、核廃絶を目指すことを約束しました。

★私は、5年前の04年8月6日、機会を得て広島を訪れ、59周年の広島平和記念式典と原水爆禁止ヒロシマ大会に参加、改めて原爆の惨禍を実感しました。世界的に核廃絶の流れが加速することを願い、「ノーモア・ヒロシマ」の風化を懸念する一人として、5年前にしたためた“私のヒロシマ・ノート”を披露させていただきます。(写真は筆者撮影)

原爆ドーム 元安川越しに原爆ドームを望む

被爆モニュメントの前での違和感

これまでにも仕事などで広島を訪れる機会があり、原爆ドームや広島平和記念資料館には何度か足を運んだ。原水禁ヒロシマ大会に参加する機会を得て、被爆モニュメントに再会した私は、少々違和感を感じていた。資料館の陳列が、訪れるたびにスマートになり、生々しさが薄れているような気がしたのだ。

★陳列されている惨禍の遺品の一つ一つの放つインパクトに変わりはないのに何かソフトになっている。私の抱いた違和感を解くカギが、2日目の夜に会った被爆者、下原隆資さんの話の中にあった。

資料館のごちゃまぜ人形

★「みなさん、資料館に行かれたとき、原爆の熱線で皮膚のとろけた両腕を前に突き出した被爆人形を見たでしょう。私らは、あれをごちゃまぜ人形と呼んどるんですよ。爆心地から1,500㍍以内にいた人は、露出していた肌がどこもかしこも人形の腕のようにとろけたんです。人形は服を着ていますね。服が燃えなかったのは2,000㍍以上はなれた場所にいた人。あの人形の顔には、火傷がなかったでしょう。それは爆心から3,000㍍以遠にいた場合なんですよ。両腕が人形のようにとろけた被爆者は、顔も無残にとろけ、服は燃え、裸になっていたんです」

★あの被爆モデルの人形が資料館に陳列されることになったとき、下原さんら被爆者たちは人形の被害表現のごちゃまぜを指摘し、訂正を館側に求めた。

「むごすぎたら見学者が来ん」

当時の館長は「ごちゃ混ぜは承知している。顔まで腕と同じように表現したら,むごたらしすぎて見学者が来んようになる」と答えたという。

★「そう言われて、私たちは引き下がりましたが、あれでもむごたらしいですが、ほんとうの被爆の姿はもっともっと目をそむける悲惨なものだったのです」とこめかみから唇にかけて大きな裂傷の跡を持つ下原さんは静かに説明してくれた。私が抱いた違和感は、そんなソフト化の配慮にあったのだ。

心を捉える『ヒロシマ-原爆の記録-』

★参加した分科会で、被爆直後の人々を36㍉フィルムで撮影した30分のビデオ『ヒロシマー原爆の記録』を見た。日本人カメラマンが写したこの生々しく、むごいフィルムの存在を知ったアメリカ軍は、ただちに没収したのだが、押収される前に密かにコピーされた一本のフィルムが占領から解放された後、関係者の努力で優れたドキュメンタリー作品となって、いまも多くの人々に核兵器の惨禍をストレートに伝えている。

★故宇野重吉の淡々としたナレーションで展開される被爆者の悲惨には、手が加えられておらず、そのことが見る者の心を一層強くとらえることを、ソフト化を配慮する人たちに訴えたい。悲劇を繰り返さないためには、悲惨から顔をそむけてはならないと思う。

原爆死没者慰霊碑(奥に原爆ドームを望む) 原爆の子の像

歴史年表に風化させてはならない

★私はいま、ヒロシマ、ナガサキを、日本が近代国家として大国ロシアに初めて挑んだ日露戦争とダブらせている。1904(明治37)年2月から1年2ヶ月余りの戦いだったが、戦力劣勢の日本軍が革命前夜のロシア軍の足並みの乱れに助けられ、辛うじて勝ちいくさとなった戦争である。

★日露戦争の終結59周年は、1964(昭和39)年、東京オリンピックが開催された年だった。そのとき28歳の私にとって、日露戦争は自分が生まれる遥かな昔、明治時代の歴史年表に風化していた。

★幸運な勝利で終わった日露戦争に較べて、世界初の原爆被爆の惨禍を体験したヒロシマの記憶は、いまなお生々しい。だが、歳月の経過の中で風化は確実に進んでいる。ヒロシマ、ナガサキが人々に痛みを想像させない歴史年表になったとき、過ちが再び繰り返されることを私は恐れる。

★59年前の暑い夏の記憶は、ありのままを次の世代にかならず伝えて行かなければならない。その思いを改めて強くしたヒロシマへの旅だった。(04.8.13.記)

59周年原爆記念日式典の会場を埋めた参加者たち(平和公園で)

被爆者の言葉から

◆ 山城光明さん(72歳)=中学1年(13歳)のとき学校に立ち寄り被爆

★カタカナのヒロシマが、だんだん影が薄れていくような気がします。そして、漢字の広島になっていく。(被爆後の広島に使っている)カタカナのヒロシマを、戦後を終わらせようとするものが働いているとしたら…。雁垂れに黄と書く戦前の廣島に戻っていく、不気味な大きなものが動いていないでしょうか。『戦争が終わって59年過ぎた』という言葉を聴いたら『たったの59年しか経っていないじゃないか』と繰り返してほしい。

◆ 下原隆資さん(74歳)=中学3年(15歳)のとき爆心地から1500mの地点で被爆。被爆の1週間後に実家のある能見島に8人が戻ったが、下原さんを除く7人は間もなく死亡。

★「お前は放射能を出すから向こうへ行け」と言われる差別が10年続きました。大阪の会社に就職しようと面接試験を受けたとき、顔の傷跡のことを訊かれ、被爆したと答えたら「うつる」という理由ではねられました。就職だけでなく、結婚でも被爆者差別は続いたんです。

◆ 広島発言(平和行進ボランティアの男性)

★今年も原水爆禁止大会に子供たちが参加していますが、ヒロシマ行進でやって来る子供たちに休憩のために学校の施設を借りようとすると「学校は政治に中立でなければならないので、使用は許可できない」と断わられるケースが毎年増えています。平和教育が偏向教育と言われる時代になってきました。私たちすべてが被爆者と思った方がいいのです。放射能物質をすべての人が体に蓄積しているのですから。

<04年8月4日~6日の広島平和集会で会った原爆被爆者、平和集会参加者の発言メモから。>

[参考映像] (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転借)

広島に投下された原子爆弾
(リトルボーイ)
長崎に投下された原子爆弾
(ファットマン)
ウラン原爆 プルトニウム原爆

広島に投下された原爆のきのこ雲
原爆投下前の広島市中央部
同心円の中心が爆心地。左上に目標の相生橋。画面右上の矩形は広島城


♪このコーナーに流れているBGMは、ポーランドの作曲家ショパンの作品「バラード1番」です。

♪第2次大戦でナチス・ドイツのポーランド侵攻以後、ワルシャワの廃墟の中を生き抜いたユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験記を元にして2002年に制作されたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画『戦場のピアニスト』(原題ピアニスト)で、隠れ家で発見されたとき、ドイツ将校の所望で弾いた曲が、ポーランド作曲家ショパンの「バラード第1番」でした。

♪戦争の非道を訴えたこの映画は、カンヌ映画祭の最高賞「パルムドール」、アメリカのアカデミー賞の監督賞、脚本賞、主演男優賞他、各国で多くの賞を受賞したことは、ご存じの通りです。


♪BGM:Chopin[Ballade 1]arranged by Pian♪

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