なにぶん貨物用の馬車であるので、座席もなく床に直接座るため、振動がまっすぐ体を捉えてくる。
さらにその揺れに合わせて周囲に狭しと積まれた武器達ががちゃがちゃと喧嘩を始めるのだ。
普段武器に触れることなぞなく、免疫のないメイヤーにとってその音はたまらなく不吉で、悪魔の合唱にすら聞こえる。
そういった環境に半日以上も身を置き、この線の細い男の心身は疲れ果てていた。
いくら恋人の誕生日に間に合わせるためとはいえ、無理をするものではなかったのかもしれない。
馬車は今、山の頂上付近の休憩所に停留している。
すっかり日は暮れて、馬車の中から見える景色は薄暗い。
御者がおこした炎のゆらめきの先にはもう一台の馬車が見える。貨物用ではなく客車。
あちらは今から焚き火をはじめるところらしかった。
冷えてきたからと御者に馬車から降りて火に当たる事を薦められたが、メイヤーはやんわりとその申し出を断った。
どうせ明日も夕刻までこの馬車に乗っていなければならないので、一刻も早く横になって眠ってしまいたかったのだ。
しかし、馬車の同乗者はそれを許さない。
向かいで心地よさそうに眠っている金髪黒肌の男の獣の鳴き声の如き鼾は大変不快だった。
とてもではないが、ただでさえ神経質な性質のメイヤーは寝れたものではない。
「…この人、昼からずっと寝てますね」
男を一瞥し恨めしそうにメイヤーが言った。
「その人も飛び込みだったんだよ」
火を見ながら御者が続ける。
「あんたより一時間ばっかり早くに事務所に来てね、貨物車しかないって言ったら『それでいい』って。
私も随分長い事あっちこっち回って馬車引いてるが…飛び込みで貨物車に二人も乗せたのは初めてだ」
人好きのする顎鬚を蓄えた顔がメイヤーの方を見る。
「乗り心地はどうですか、お客様」
御者がにやりとしながら茶化すように言う。
「そりゃもう素晴らしくて…二度と御免ですね」
期待通りの言葉も返された男は「はは そうでしょう」と表情を崩した。
その時だった。
「やめてください…!」
押し殺したような、それでいて力の込もった女の声がした。
この静かな山でその声は十分に周囲に響く。
その声はメイヤーと御者の耳にも届いた。
何気ない動作で声のした方に視線を流した御者の顔が強張った。
「野伏…っ」
御者が心底恨めしそうに言葉を吐いた。
野伏――。
敗残兵や元傭兵が集団で山野にねぐらを構え、夜盗や山賊となったものをそう呼ぶ。
最近ではこの付近で大きな戦闘も無く、遭遇するのは非常に稀と言えた。
「やめてください〜、だってよぉ?」
「ひゃは、似てねえ、似てねえよお前ソレ、ひひひ」
禿頭の男が女の声色を真似すると、となりの赤ら顔がへらへらと笑いながら応ずる。酒が入っているらしい。
「やめろと言われてやめる奴はここにはいませんよー、お嬢ちゃん」
「……」
野伏は全部で4人いるらしい。
今女に絡んでいる禿頭の男、酔っている赤ら顔の男、
長ナイフを手で玩んでいる痩せた男、背中にポールアームを背負い帽子を目深に被った男。
焚き火越しの光景は、メイヤーに現実感を伴わせないものだった。
腰に手斧を下げた厳つい男が、赤毛の女性の手首を掴み、引き上げようとしている。
その周囲を残りの男達が遠巻きに囲んでいた。
ゆっくりと馬車へと戻りながら御者が言う。
「……すぐそこの人を起こしてください」
「…へ?」
その声でメイヤーは我に帰る。思わず自分の顔を触って確認。
どれだけ呆けた表情をしていたのか想像も付かなかった。
「逃げましょう」
静かに、しかしはっきりとした声で御者が言う。
「え、ええ…」
メイヤーは焚き火越しの光景から目を離せないでいた。
「今ならまだこちらまで来ません。馬車を置いて逃げましょう。朝まで身を潜めればどうにでもなります。」
御者は冷静だった。いや、気丈だったと言うべきか。
「でも…あの女性…」
「死にたいんですか」
メイヤーの言葉を、壮年の男の有無を言わせない強い口調がかき消す。
気持ちは、わかるけどね。と、御者はバツが悪そうに続けた。
「時間が無いんです。その人を早く起こして。」
「は…はいっ」
半分パニックになりながらメイヤーは寝ている男の肩を激しく揺らす。
「起きてくださいっ」
男は動かない。
メイヤーの力では文字通り、この男の体は「動かない」。
体格もあるだろうが、体の大きさ以上に内包している力が違いすぎるのだが
それをメイヤーが思い知るのはもう少し後の事だ。
「んっー… ぁー…」
などと唸りながら寝返りを打つだけだ。
「ちょっとっ! 早く起きて!大変なんですからッ!」
細い腕に目いっぱいの力で男を揺さぶる。二人の周囲の武器がカタカタを接触を始める程度の力だ。
「んん・・・!」
唸る男の右腕がうっとうしそうに背中側を薙いだ。
肘が脇腹に当たったメイヤーは悶絶の表情。その場に蹲る。
「!! ぐぅ…っ…っちょ…」
「……んー?」
うめき声を聞いてようやく目が覚めたのか、男が心底だるそうに上体を起こす。
後頭部をぼりぼりと掻きながら周囲を一瞥し、メイヤーに気付いた。
「チッ…なんだってんだ」
イラついた口調で男が言う。
寝起きで上手く声が出ていない声を聞きながらメイヤーが顔を上げると
眉を寄せ、親の仇を見るような眼でこちらを見ている男がいた。
「ひぃ…ッ!」
痛みに耐えながら、メイヤーは一瞬で理解する。
自分と、この男は別の生き物だと。
口にした食べ物が違う。見てきた世界が違う。関わった人間が違う。
―――生き方が違い過ぎると、全身で感じていた。
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「…おい」
「はっ…」
「お前だよ。なんで起こした。」
明らかに不機嫌な声。
上体を起こして、首をぼきぼきと左右に傾けながら寝起きの野獣は自分を目覚めさせた男を睨む。
「いや、あの、あの、そのですね」
「野伏です…。早く逃げましょう。」
狼狽するメイヤーの声を遮り、背後から御者が声を張る。
横目で確認すると男達はまだ女に絡んでいるようだったが、光の反射で男の1人が刃物を取り出しているのがわかる。
誰が見てもこれから起こる事は容易に想像が出来る。
「野伏…?珍しいもんだ」
しかし、寝起きの男の声に緊張感は見られない。軽く欠伸までしている。
苛立っている風には取れるが、それ以上の態度ではない。
メイヤーが怯えながら後ろに下がり、逃げるように馬車から降りる。
男もブーツを履き、枕もとのガントレットを左手に装備してから馬車から飛び降りた。
地に降りた男の、炎から照らされる姿は精悍だった。
鋭い漆黒の瞳は獣のそれ。力強さに溢れている。
後頭部で束ねられた黄金色の頭髪は詩人ならば獅子の鬣に例えるだろうか。
使い古されたマントの隙間から覗く腕や体は、限りなく筋肉質。
放たれる薄い威圧感は、発達した八重歯を牙のようにも見えさせる。
「さ、早く」
御者が横目で野伏を見ながら促す。懐には大きな巾着袋を大事そうに抱えている。
今にも駆け出さんばかりだった。メイヤーもそれを見て小走りに御者へ近づく。
「おい」
駆け出そうとする二人を呼び、男が顎をしゃくる。
「女置いて逃げる気か」
言葉には軽蔑の意思がしっかり込められていた。
「仕方ない事だ。…もとより関わり無い。」
「……」
男は何を言うわけでもなく御者に獣の視線を浴びせる。
「あんたは堅気じゃないみたいだが…助けたけりゃ勝手にやってくれ! 私は御免だ。」
それだけ言うと、御者は闇の林の中へと身を投じる。がさがさと葉と葉が擦れる音が遠ざかっていった。
「あ…」
その様子を見て、メイヤーは立ち尽くしていた。
まだ野伏には気付かれていない。
確かにここで逃げれば、馬車は荒らされたとしても朝まで逃げ仰せられるだろう。
暴力、ひいては殺人はあくまでも手段であって目的ではない。
行うには理由がある。それは金銭であったり怨恨であったりするだろう。
どんな悪漢とて快感を覚えるために人を殺しているわけではないのだ。
若く、いまだ血生臭い修羅場に居合わせた経験のない彼はまだそうとしか考えられない。
「…お前、名前は?」
その声に、体がびくりと反応する。
声のしたほうを向くと、男が馬車の横に括りつけられていた大きく長い物に巻かれている荒縄の結び目を解こうとしている。
「め…メイヤー。シュライブ・メイヤー、です。」
「お前も逃げるつもりだったんだろ、メイヤー。」
「え、え… まあ…そうですね」
メイヤーはバツが悪そうに男から目をそむける。
「そりゃ正しい判断だ、早く逃げろ。腐ってる負け犬の思考だし俺は軽蔑するが、なッ!」
よほどきつく縛られていたのか、最後には男は紐を素手で引きちぎっていた。
紐から開放された巨大な何かが男の肩に背負われた。
「今回はたまたま俺が乗り合わせて、今回はたまたまやる気がある。よかったな、逃げなくてもいいぞ。」
メイヤーが見たその「何か」は、すぐに武器とは判断できなかった。
自分が見たものでそれに近いものがあるとすれば…家の裏にある石柱。そう、墓石によく似ていた。
子供の頃はよく登って遊んでいたものだ。その度に祖父に怒鳴られていた記憶がある。
根元に取っ手の付いたその「墓石に似たもの」を、男は担いでいた。
「襲われてる所助けるなんざまるで王子様だな。あの姉ちゃんに惚れられちまうかもな。」
炎の向こうの男達を見ながら獣が口元を吊り上げる。
メイヤーは思う。
おかしい。
何がおかしいか。
まずこの男、自分のまったくかかわりのない人を助けようとして動いている。
次にこの男、相手は4人いるというのにまったく臆していない。
そしてこの男、自分の背丈よりも長い武器(のようなもの)を軽々と担いでいる。
最後にこの男、終わった後の事を心配している。もう助けた気でいるのだ。
全てがおかしかった。
歩き出す男にメイヤーは何も言えない。
その全ての「おかしさ」を頭の隅に追いやる強引さと説得力が、その背にあったから。
「あぁ…俺の名前言ってなかったな」
男がぶっきらぼうに半身だけ振り返る。
「…リコだ。覚えとけ。」
何気なくそう答えると、男――リコは、再び歩き出した。
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懐より鋭く突き出された輝く刃に、女の胸へと向かっていた腕が止まる。
その銀の刃先は、震えていた。
「近寄らないでッ!」
橙の火光が銀の腹に反射する。ナイフを持った女の顔は決死の表情。
それは橙に光る刀身と合わせて見れば、美しささえ感じられる。
作られたものではない、生命の強さが見せる美しさだ。
男がその刃に視線をやった。意識は、そこから動かない。
「今から何されるかわかってんだろ」
「……」
女はしっかりと口をつぐんだまま何も喋らない。
「こういうもん持ち出されっと…俺らもマジにならなきゃいけねえ」
俯いた男の声が低く響く。
その言葉には、剣呑な空気が含まれている。
「なぁに 大人しくしてりゃいい」
男の顔が上がる。
「朝までにゃ終わるさ」
瞳は、悪魔のそれだった。
びくりと女の体がそれに驚き、たじろいだ瞬間
「!! っ…くっ」
男の右手が女の手首を捉えた。
そのままと女の手首が捻り上げられると、手に収まっていたナイフが地面へと落
ちた。
「っぁ…!」
痛みに女の顔が歪む。
「手間取らせやがって」
品の無い笑いを浮かべながら、男の左手が女のワンピースを掴んだ。
下に少し力を入れると、音を立てて服が裂けた。。
「!!!」
女はおもわず胸を押さえ、顔を伏せる。
女の肩が、嗚咽で揺れ始めた。
…これで終わりだ。
男達がつるみ出して、こうして女を襲った経験は両手で数え切れないほどある。
絶望の表情の女に顔を張られて、口の中を切った事があった。
そこから「邪魔にならない」手足の縛り方を覚えた。
最中に舌を噛み切って自決した貴族の女もいた。
それからは猿轡をする事にした。
その経験が言っているのだ。もうこの女に抵抗する気力は無いと。男とその後ろにいる三人はそう判断した。
だから「これで終わり」。後は美味しくいただくだけ。
「他にこんな物騒なもん隠してねえだろうな」
「…身体検査、だな」
焚き火の明かりで、夜半に出来た4つの影がうずくまる女を緩く囲んだ。
その時。
「楽しそうじゃねえか」
4つの影が声のした方角を一斉に振り向く。
身丈ほどの何かを担ぎ、使い古されたマントに身を包んだ男がいた。
炎の明かりが、その男――リコを照らす。
照らされたリコの表情や言動に緊張感や真剣味は感じられない。
しばしの沈黙の中、軽い欠伸すらしていた。
黙ったまま、男達は思考を巡らせる。
顔は若いが体格はいい。筋肉質な体が立ち姿でわかる。
覗くブーツもグリーブに似た戦闘用のもののようだ。
ギルドの警邏にしては格好が貧相すぎる。
第一、もう夜の帳が降りようとしている時間にこんな山奥をわけもなく一人で巡回する者など聞いた事が無い。
だとしたら…あっちの馬車に乗ってたか。
しかし、あれはなんだ。
巨大な杭にも見えるし、石柱にも見える。だが素材は金属。
柄も付いているし、剣のつもりなのだろうか。
だが、あまりにも大きすぎる。あのサイズの剣なぞベイレリアンの戦士でも扱えん。
ハリボテか…。
男達は考えを巡らせつつ、リコを警戒をしているのが誰の目にもわかった。
「…何もんだ」
一番リコに近い場所の、痩身の男が問う。
痩せて、頬がこけ気味の顔は下からの明かりで髑髏の様に不気味に見えた。
右手のナイフをいつでも抜けるように準備。軽く腰を落とす。
「通りすがりだよ」
「…残念だがあんたの順番はこねえ」
「順番? ああ…寝起きでな、そんな気分じゃねえんだ」
そう言って、うつむきながらバツ悪そうにリコが後頭部をかく。
そして
「…俺が興味があるのはお前らだよ、糞蝿どもが。」
沈黙を破る言葉が、ゆっくり、しかしはっきりと吐き出された。
「あ…!?」
「なんだと…?」
男達が各々、武器を抜いて構えた。目には敵意と殺意がブレンドされた光が宿る。
今更謝ったところで済むような空気ではない。
「…さっさとかかって来い。じゃねえと俺から行くぞ…ッ!」
顔を上げたリコに、悪鬼羅刹の表情が貼りついていた。
吊りあがった口。覗く八重歯。不吉なまでに見開かれた三白眼。
もう我慢できないと。早くやらせろと。
体が、心が、そして剣が、リコ自身を揺さぶっていた。
「死ねぇえええええ!!」
男達が飛び出す。
静寂が喧騒へ、平穏が惨劇へ、変わった。
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ベグー。
クルツァ民謡や神話に登場する、七本の脚を持つ天を突くほど大きな竜神。
その言動は粗暴で豪快、そして神界に知らぬものはいない程の悪食であったという。
創造神パルが作った、白銀で出来た塔を食べた際にそれを咎められ、
怒りのあまりに創造神を一度殺してしまうが、女神フェルスの秘法によって蘇ったパルによって倒される。
このベグーの爪の名を冠した剣、屠獣刀ベグレド。
「今まで作った中で最高の剣だとは言わんが、最大の剣だとは断言できる」と、
この剣を評した武器職人、ヨルグム=ラーザが名づけた。
そのあまりに巨大で残虐な「爪」の最初の犠牲者は、リコから一番近い位置にいた痩身の男。
それなりの修羅場はくぐっている男であった。
ナイフを抜いてから、刺すまでの一連の動きはもう数え切れないほど繰り返した。
仕事で殺した人数は覚えていないぐらいだし、酒場で口論になった僧兵を刺し殺した事もある。
そんな目と身軽さには自信があった彼をしても、袈裟に振り下ろされた竜の一撃は見えなかった。
視界の悪さを差し引いても、それがあまりにも速すぎたのだ。
思い込んでいたのだ。
あんなものを武器として使えるわけがないと。
無理もない。
彼の物差しで測れる武器でもなかったし、それを振るう者もまた、彼の物差しで測れる男ではなかった。
瞬きの速さで、銀の奔流が左の肩口から脇腹まで駆け抜ける。
辺りに血をぶちまけながら、男はつんのめって倒れた。
勝負を決するに、充分な一撃。
「い…っ… っぐうっ…!」
リコの後ろで、男が痛みに呻く。出血が多いが即死してはいない。
「…ちっと遠かったか」
その光景に驚愕したのはもちろん、勢いづいていた残りの三人だった。
三人が同時にその場に止まる。
金髪の男の肩に担がれたものが振り下ろされたのが彼らには見えていた。
無残に倒れたたかつて仲間だった死体を見た時に理解した。
あれは、剣だったのだと。
リコは半分地面に埋まった刃先を正眼に構えた。
その巨大な切っ先の、刃の、なんという威圧感であるか。
リコが視線を後ろにやった。
「おら来いよ。それともこいつ置いて逃げるか。」
三人がその一言で我に帰る。
目で合図をし合い、全員でリコの周りを囲むように位置取る。
その間3秒。息の合った行動であった。
メイヤーは、木影から固唾を呑んでなりゆきを見守っていた。
荷物を握り締める腕には自然に力が入っている。
青の瞳は見開かれて、手の平は汗まみれ。
その顔に浮かんだ感情は、ここからどうやって逃れるかといった類のものではなかった。
彼は今、かつてない興奮を持て余している。
あのリコという男への興味。それだけが、今メイヤーを支配していた。
メイヤーは人と争うことを極力避けてきた。勝負をすれば必ず勝者と敗者が生まれる。
それで人を恨むのも嫌だし、恨まれるのはもっと嫌だった。
殴りたいほど腹が立つ事はあったが、喧嘩なんてやったこともない。
恋人からそれを揶揄された事もあるが、彼はへらりと笑うだけだった。
負けず嫌いな恋人の事を疎ましくさえ思うことがある。
どこかで下に見ていた。そんな人間を。
ばかばかしいと思っていた。労力の無駄だと悟っていた。
意地を張って強がってまで自分を通すストレスに比べれば、身を引くほうが楽だ。
「そんなにムキにならなくても…。別に死ぬような事じゃないんだし。」
普段彼はそう言っていた。
そう。
人のが生き、死んで行く。その瞬間。
彼の眼は今、それを写している。
かつて見たどんなものより鮮明に、脳に記憶が刻まれていくのがわかる。
その現実と、重さ。
風に乗って、ぷんと鉄の匂いがする。
痛みにうめく声が聞こえる。
狼達の中心で、金髪の悪魔が笑っていた。
それは非常に薄く、注視していなければわからない程度の笑み。
しかし確かに、リコは笑っていた。
しかし、それは表現として正しくない。
それは動いたのではない。動かされた。
リコが放つ鋭い殺気に三人の心臓がびくりと反応し、反射的に動いてしまったのだ。
それを確認するとリコは後ろへステップを踏む。
それぞれの男との間合いを確認。そして雷光の速さで体を切り返す。
斬りかかろうとした男たちの動きが止まり、そこに標的がいない事に気付くまでの時間は数秒もなかっただろう。
しかしそれは、悪魔の一撃が浴びせられるには充分すぎる時間。
瞬きの速さで振りかぶられた、慈悲無き爪が、その倍近い速度で振り下ろされる。
どん、と音がしたかと思うと、手前の男の右腕が宙を舞っていた。
「っがあぁあああ!!」
男の叫びを聞いたリコの顔に、凄絶な笑みが浮かぶ。
その表情はまるで邪神から与えられた自らの力を確認する悪魔のようだった。
巨竜爪の名を持つ剣は、凄まじい重みと刃の鋭さが共存している。
その姿は伊達や酔狂ではない。使いこなせれば狂気染みた威力を発揮する対人・対獣武装。
男の腕から血が地に滴り落ちるのも待たず、悪魔は右前方へと体を躍らせた。
マントに包まれたその姿は例えるならば大砲の弾頭。その勢いのまま足を上げ、男の無防備な膝を思い切り踏み砕く。
男の耳に、ぐちっ、という音。
足にとてつもない激痛が走る。男は立っていられずに崩れ落ちた。
一瞬のうちに間合いをつめたリコの足底は、曲がらない方向へと男の足を曲げた。
「っぎいっぎいい…! あ…っがぁあああ…っ」
「ぐううっぅっ…!っく…ぁあっぁ…いでえっぇええええ」
「…しまった」
死も見える痛みに喘ぐ男たちを尻目に、リコが低くなった上体を起こす。
「切れ味試すんだったのに、ついクセで足が出ちまった」
何事もなかったかのような調子で、黒い悪魔は一人ごちた。
「さて」
振り返り、最後の一人の方へ体を向ける。
「…まだやるか?」
そう言葉を掛けられた男は後ずさりをする。
顔面は蒼白。顔にありありと死相が出ていた。
「あ…ぁ…ぁああ」
男の腰は抜け、失禁している。
リコと三人の力量の差は、まさに圧倒的。
「俺は構わんぜ。腕の一本じゃ試し斬りには足りねえしな。」
虎の前の鼠。像の前の蟻。
今対峙しているものは、悪魔であり、自分は人間だ。
天と地が逆しまになろうとも、勝てる道理はなかった。
焚き火がリコのシルエットを闇夜の森に浮かび上がらせる。
ざり、とその影が男に近づき、眼前でしゃがんだ。
「あっ…あぁああっぁああああああ!」
「死にたくなかったら後ろの生ゴミ全部連れて、今から山降りろ。
まだ息はあるみてえだからな。さっさとしねえとほんとに生ゴミになっちまうぞ。」
「ああぁ…ひいぃぃい…」
「わかったか…!」
リコが、静かに一喝すると男はおもちゃのように首をぶんぶんと縦に振る。
ついに出す声もなくなったらしかった。
「……」
それを確認すると、無言で剣を起こし肩へと担ぐ。
惨事の後の夜の森はすぐさま、先ほどまでそうであったように静けさを取り戻した。
焚き火のぱちぱちという、燃焼音が響くだけだ。
「……は」
メイヤーがリコが立ち上がってから数秒後、我に返った。
どうやら呼吸もせずに見入っていたらしい。こんなことは初めてだった。
「そうだ…!あの人…」
メイヤーが女に駆け寄る。
腰が抜けているのだろう。女は震えるだけで動く事もできないようだった。
「だ…大丈夫ですか」
一瞬その姿にたじろいだものの、メイヤーは上着を脱ぎ女の裸体にかける。
しかし、女はそれでも動かない。瞳はリコを射抜いていた。
多くの感情が入り混じった、複雑な視線。
しかしそれに最も多く含まれる感情は畏怖や怯えといった類のもの。
その視線に気付き、リコが女とメイヤーを一瞥する。
「……」
少し眺めた後、『面倒くさい。任せた。』とでも言うように、メイヤーに対して顎をしゃくると
自分は馬車へと戻っていった。
リコは知っている。
こういった状況に出くわしたのは初めてではない。
若い頃は、謝礼を多くせびる為に、先に山賊が待ち構えているのを知った上で
あえて、商人のパーティを襲わせた後に助けた事もある。
そうやって助けられたものがリコに対して最初に抱く感情は、間違っても感謝などではない。
まずは恐れだ。あの刃が、拳が次は自分に来ないかという怯えだ。
それから冷静になって初めて感謝の念を思う。それも心に畏怖を抱きながら、であるが。
最初は腹が立った。だがもう今はそういうものだと思っている。
自分は助けられた事がないので理解する事は出来ないが、人とはそういう風にできているらしかった。
気に食わなければ助けなければ良いだけの事。
眼前に気分の悪い光景が広がるだけ。別段損をするわけでもない。
というよりも、他人の為に命を危険に晒す方がおかしい。
だがどうもこの男はそれができない。
少なくとも今まで見殺しにできた事はなかった。
だが同時に素直に助けに入った事もない。何かしら自分で理由をつけ、割って入る。
この男――リコは、そういう風にできているらしい。
馬の駆け出す音が、リコの後ろで聞こえる。男が逃げ出したのであろう。
振り返る事なく、馬車へ戻り、剣を床へ置くと先ほどと同じ位置に寝転んだ。
明日は御者なしで山を降りなければならない。
昼頃にはふもとへ辿り着けるかどうか…
ここでふと、リコの脳が冷え、冷静な思考を取り戻した。
御者なしで馬車を操って山道を下れるのか?
自分には馬術の心得など全くない。
どう見てもあのメイヤーに馬車を扱える技量があるようには見えない。
女もまた然り。
……
結局リコは、寝る事にした。
考えても仕方の無い事だと思ったからだ。
これは賢明な判断だった。
考えた所でこの男の思考能力では事態を打破する案が浮かぶ事など無い。
それならば明日に備えて体を休めたほうが幾分かはましだった。
背中に汗をかいている気がするが、気のせいだと自分に言い聞かせ、瞼を落とす。
それからすぐさま睡眠に入ったリコの寝つきの良さは折り紙付だった。
翌日の昼過ぎ、ふもとの町のプルードゥの治安ギルドにベテランの樵から連絡が入った。
山道を超高速で降りていた馬車が、道を曲がりきれず横転、武器を撒き散らしながら
木にぶつかりながら凄まじい勢いで山肌を転がり落ち、危険なばかりか通行もできなくなっている、と。
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