「ッ――!!」

低く飛び上がり、大上段から斬りかかった裂帛の一撃。

来る日も来る日も振り、有象も無象も斬り続けたトゥーハンドソード。
世界の誰よりも上手く扱える自信があった。

当たり前である。自分の手足に等しいものを、自分より上手く使えるものが何処に居ようか。

斬りかかった瞬間、戦の感がリコに告げる。

獲った。

万全の状態から繰り出した、狙いすました完璧な斬撃。
この間合い、速度。考え得る完全。

今までこんな一撃が避けられたことは記憶にない。

そう、今までは。

誰が考えるだろうか。
そんな一撃が、あんな方法で防がれるなどと。

赤黒い体毛に覆われた腕が瞬の速度で上がり

「!?」

――ガキッと、森に似つかわしくない金属音が辺りに響いた。

リコは、目を疑った。

刃が握り締められていたのだ。
巨大な黒い、手の中に。

避けようとしなかったのは受け止められるから。
避ける必要がないからだ。

両刃の鋭さなど気にしないように、無造作にその手が閉じられる。
剣を握り締めた、人の物ではない手が一瞬振るえ、手首を返す。

鋼の刃は砕かれ、そこから簡単に折れ、刃は地面に落ちた。


――!!


びくりと体が動き、意識が覚醒する。

――この夢はいつも、ここで目が覚める。

裸の上半身だけではなく、全身が汗だくだった。
暑さのせいではない。さっきの夢のせいだ。

何度も、何度も見た。思い出さない日は無い。

傷跡の目立つ浅黒い上体がゆっくり起き上がる。
安宿の綺麗とは言いがたいベッドが、逞しい体の重さに少しきしんだ。

がんがんと頭が痛い。リコは右手で頭を抑えで俯いた。

こんな言葉がある。
“あなたが勝ち誇った時、その時あなたは負けている”。

あの時のリコの思考は、まさしくそれだった。

今思い出しても腹ただしい。相手にではない。自分に腹が立つ。

――次は必ず勝つ。あの“化け物”にも、あの時の自分にも。


リコは、こう考える。

一度の敗北は、かまわない。
不意を突かれたり、不利な条件下でなら割り切れる。

逃げると決めたなら最悪なのは死だ。
逃げる事だけを考え、どんな手を使っても生きるべきだと。

だが二度目には、必ず倒す。
自分の持てる全てを使って、命を賭け、どんな手を使ってでも。

これまでの人生、負けた事は少なからずある。
だが次には必ず勝ってきた。必ずだ。

ある占い師にはこう言われた事がある。
猛獣の体に蛇の心が宿っている。ひどく荒み、歪だ。しかし同時に頑強だ――と。
まじないの類を信じるほうではないが、言い得て妙だと思った。

人は言う。
逃げればいい。弱さを認めろ。それも強さだ。どうせ最強になぞなれはしないのだから、と。

だが、それができない。

敵から二度逃げるという事は、自分がリカルド・エディバルドではなくなるという事。
自分自身で自らの心の臓を握りつぶすのと同意だ。

死を体験した事はないが、死よりも苦痛なのは容易に想像できる。

馬鹿だとは自覚している。

しかし。

草木が太陽に向かって伸びるように。
鳥や蝶が空を舞うように。
自分はそうなければいけないのだ。

唯一とも言える、リコの確固たるアイデンティティだった。

こうやって折れかけた心に、数え切れないほどの鞭を当てて生きてきた。
今までも何度もそうやってきた。今度もそうだ。何も変わりはしない。
変わったものは、自分の得物だけだ。

数多の傷を刻んだ体が、気付けば震えていた。理由はわからない。
怒りか、恐怖か、武者震いか。

リコは深く息を吸い、目を閉じて長い時間をかけて少しずつ吐く。

古い知り合いに教えて貰った精神安定法だった。
ホラばかり吹くいい加減な男だが、この深呼吸だけはずっと使っている。

ゆっくり、ゆっくりと吐きながらイメージをする。

肉体を精神で制御していくイメージだ。

息を吐き出しながら体の血の巡りが良くなっていくのがわかる。

体に内包された力の熱を感じる事ができる。
足先から髪の毛までその力を行き渡らせる。

「……ふう――」

最後の一息を吐き出すと、震えは止まった。

まだまだ自分は自分でいられるらしい。
そんな当たり前の事を確認して、リコは安心していた。

「…やってやるぜ」

獣は暗い闇の部屋で、誰にも聞こえぬように、吼えた。

――――――――――――――――――――――――――――――

森とは、それ自体がひとつの世界である。

木が育ち、実をつける。
その実を、栗鼠が食べる。
その栗鼠を、肉食獣が食べる。
その獣もいつかは死に、大地へと還る。

それぞれが生かし、それぞれが生かされている。

言葉はなくとも長い年月の中で秩序が形作られていた。

そんなタキールの森の中にあって、その秩序の外――今までの森のルールでは許容できない
きわめて異質な生物が、1年ほど前から森に住みついていた。

どん。

どん。

どん。

地を、それ自体を揺らすような足音が聞こえると、鳥は慌てて飛び立ち、山猫も木の上へと隠れる。

大地だけではなない。
聞くものの心をも揺さぶるような、膨大な力の内包された音。

その足音の主の容姿は、巨大な猿――のようだった。
猿のようなとしたのは、それを猿と呼ぶにはあまりにも語弊が有り過ぎるからである。

大きく前に曲がった体。直立すればベイレリアンの二倍はありそうな体躯。

その背全体には先の尖った極太の針金のような鋼色の体毛が隙間無く生えている。
背以外には赤黒い毛が全身に生えている。

手も長く、巨大。子供ならすっぽりとその中に収まりそうなほど大きい。

目は吊り上がり、漆黒の瞳に瞳孔は見えず、目自体がゆっくりと臙脂色に明滅している。

口からは上下それぞれ二本の大きな牙が、まるで剣牙虎のそれのように生えており
「食事」を済ませたのか、血らしきものが付着していた。

辺りには鼻をつまみたくなるほど強い鉄の香りが漂っていた。

――気付いた時には、この森にいた。

自分の事もこれまでの事もまったく思い出せない。
物を見て、それについて考える事はできる。しかし話す言葉はもたない。

一日目はただ絶望した。

二日目は森で生きて行く事を決めた。

三日目は塒を探した。浅いが天井の高い洞窟があったのでそこを使うことにした。

四日目にどうしようもない飢えが来た。

飢えは恐ろしい。
どんなに強大で狡猾でも、生ある限りは飢えに勝てない。
満たせなければそのまま死んでいくだけ。

イタチ、狐、山兎など、手近の小動物を捉え食べるが、いくら食らってもこの巨体の空腹を満たすことはできなかった。

それどころかむしろ飢餓感は増してゆくばかりだった。

この森では、自分の腹を満たせるような食事は望めない。


では、何を食うか。

――最初は、黄昏時に見かけた旅の女薬売りだった。

春の日に良く似合う、淡いピンクのブラウスにプリーツスカート。

その容姿と立ち振舞いから、まだ年端もいかないであろうことは容易に想像できた。
方向的に、今から町へ帰るのだろう。小脇には巾着を抱えている。

男が手放しで褒めるような美しさはなかったが、若々しい健康的な体がたまらなかった。

そう思った時には、体はもう得物の元へと、疾く駆け出していた。

背後から近づくこちらに気付くと、女は何やら叫ぶが、意に介さない。
体重をかけた右腕を何も考えずに、横から叩きつける。
女の体は、まるで風の前の羽のように簡単に吹き飛び、広葉樹の幹に激しく打ちつけられた。

傍に行くと、力なく項垂れ、口と鼻からは血を流していた。
呼吸をしていないのがわかる。意識もない。
即死だったようだ。

気付けば二の腕に思いきり、噛みついていた。

牙を肉に突き刺し、引き千切ると、生暖かく、柔らかい感触が口の中に広がった。

租借し飲み込んだ瞬間の満足感に、黒鉄の体毛を持つ獣は、しばらくの間我を忘れた。

人の血肉は、それほどまでに美味だった。

機能を失った筋繊維の千切れる音。
浮き出た静脈の青さ。
そして肝臓から溢れる鉄の味。

食うためだけに自分が殺したこの女の全てが愛しく思える。
できるならば肉や内臓だけでなく、骨まで食してしまいたいほどだ。

結局その女を食い尽くした頃には辺りは薄暗くなっていた。

食事を終えた怪物の目には、暗く、赤い色が宿っていた。
夜の帳が降りた今も、炯々と鋭く光る眼光。

人食いの業に魅せられた獣が一匹、生まれた。

程なく、獣は人からこう呼ばれ、忌まれる事となる。
タキールの人喰い猿、ワルバ、と――。

ナスカ無料ホームページ無料オンラインストレージ