【プロフィール(2005年版)】
・・・作者が長年(?)ファンをやっていて集めたデータや新聞や雑誌の記事+α(親切な方のタレコミ情報等)に基づいて作製されております。
知っていることは思いつくだけ盛り込んでみました。

フルネーム Pierre Littbarski
生年月日 1960.04.16.
サッカー歴(+α)  1960 4月16日、西ドイツのベルリン市にて税務官の息子として生を受ける。
     
坊やに「ピエール」というフランス語の名前をつけたのは、彼のママ。
     
お祖父さんが無類のサッカー好きで、坊やが蹴球好きになったのは彼の影響らしい^^でも、一族は「音楽一家」。

 1964 5歳でストリートデビュー。すぐに空き地のトッププレーヤーに。
     
当時誰も持っていなかった本革のボールに釣られて、近所の兄ちゃん姉ちゃんたちが
     
仲間に入れてやったのが始まり。

 1967 VFLシェーネベルク入団。
当時はアヤックスやBMGが好きだったらしい。
     
当時の彼がどんな選手だったかについてですが、その機敏さは「イタチのような男の子」と
     描写したくなるものだったとか。
     なお、作者が昔写真で見た子供時代の彼は、ひょろ長い手足をした小さな坊やで、
     はにかんだような笑顔が印象的でした(笑)。

 1974 W杯西獨逸大会にボールボーイとして参加。(東ドイツvsチリ戦)
     地元が優勝するが、
好きだったクライフのいる阿蘭陀は2位

 1976 ヘルタ・ツェーレンドルフに引き抜かれる。国内2位の成績に貢献。
     
03シーズンに助っ人フィジコとして横浜に来てくれたロベルト・ヤスパートさんとはこの頃からの友達。
     
当時の彼はあまり口をきかない大人しい子だったらしい。

 1978 エアステ・エフツェー・ケルン移籍。
     
ギムナジウムは中退。お父さんの猛反対を受けるが税務署の訓練生も辞める。
     
なお、ヘルタは、発育不良を理由に彼を捨てたらしい。拾ってくれたヴァイスヴァイラー監督(故人)は、エライ!!

 1979 すっかりレギュラーに定着。
     
ギムナジウム時代からの恋人モニカさんと結婚。

 1981 10月墺太利戦で代表デビュー。いきなり2得点。

 1982 W杯西班牙大会出場。アシスト王獲得。
     華やかなプレーと「端整な顔立ち」(某誌)で大会のアイドル的存在に。
     
長女デニーゼちゃん誕生。
      * 大会後は一種のスランプ状態に。

 1986 W杯墨西哥大会出場。怪我人として参加したが、喧嘩の仲裁の席で活躍(違)。
     ラシン・ド・パリ移籍。
     
まもなく仏蘭西がイヤになった奥さんが帰国。一時的に別居状態に。
       ある朝家の壁に「鉤十字」の落書きを発見し吃驚仰天したのも、この頃。


 1987 エアステ・エフツェー・ケルン復帰。
     この頃復調。英蘭との親善試合では見事2ゴール^^ 
なお、試合のスコアは2−1で西ドイツの勝ち。
     
次女ミシェールちゃん誕生。
     
クラブとの仲はイマイチ。92年頃にはチームの役員と喧嘩。

 1990 W杯伊太利亜大会出場。3度目の正直で優勝。

 1993 奥寺さんに誘われて古河電工移籍。当初は
某三菱のチームに行くはずだったらしい。
     来日直後から親しみやすいキャラで日本人の心を掴む。
     日本語を猛勉強してチームメイトの信頼を掴むことにも成功。

 1994 某監督と衝突、シーズン終了後に一度選手を引退してみる。
     
この頃既に奥さんと別居。調停の末、翌年1月に離婚成立。

 1995 古河電工ジュニアユースでコーチをやる。(教え子は阿部勇樹くんなど。)
     
恋人だった日本人女性、小泉ひとみさんと入籍。

 1996 旧仙台へ。プレイングマネジャーとしてピッチに戻る。
     
5月に結婚式。

 1997 クラブと喧嘩。本気で引退。
     
ピッチ上でギラギラした自己主張をする選手ではなかったけど、
     
個性の煌めきと勝負師の冷徹さとを、さりげなく、しかし確かに見せてくれた選手だった・・・。
     外国籍初のJFA公認S級ライセンスに挑戦、日本語の講義と論文に耐え、見事取得♪
     
9月、長男ジョエルくん誕生。

 1999 横浜FC(JFL準会員)監督に就任。優勝してチームは正会員に。

 2000 無敗で優勝。J2昇格を決める。
     この年、獨逸と日本を何度も往復して獨逸のS級ライセンスも取得。
     ダウム氏コカイン騒動が独逸で勃発、
     その煽り?で、急遽レヴァークーゼンのコーチ就任の要請を受けることに。

 2001 bayer04Leverkusenで、ベルティ・フォクツ氏の右腕になる。
     就任早々、目立ちすぎて(?)キルステンと大喧嘩。

 2001 5月、不振の責任を取らされてフォクツさん解任。スタッフだったリティも、
     もうひとりのコーチ(W.ロルフ氏。U−21時代からの親友。)と一緒に 解任。
     その11日後に再就職。ツヴァイテリーガのMSVデュイスブルクの監督に。

 2002 あろうことか、ライバルチームのウニオン・ベルリンの関係者と接触していたことを
     ばらしてしまう。おまけに「監督やってみたい。」なんて言ってしまったため、即刻クビ・・・。
     ちょうど次期監督が決まらずに困っていた横浜FCから復帰要請。「帰国」が決まる。

 2003 シーズン88失点。一度崩壊したDFを立て直すのって、難しいんだろうな。
     
次男ルシエンくん誕生。

 2004 シーズン44試合中22試合のドロー記録を樹立。クラブは史上最高の8位の成績を残すが、
     監督はあっけなく解雇(たぶん解雇)。
     
(「本当のところ、リトバルスキがクビになったのか、彼が自らチームを去ったのか、
     
 俺たちにはわからないんだ。元々クラブ側は彼にこれまでより条件的には良くない
     
 契約を申し出たのだけれど、それは後に撤回されちゃったんだよ。」by.スティーブ)
     シーズン終了後に某港町のクラブからオファーが届くが、社長面接でケンカ別れ。

 2005 2月末、濠太剌利の新生シドニーFC(Aリーグ)からのオファーを快諾。南半球へ!
     6月、無敗でOFCクラブチャンピオンシップ優勝、オセアニア代表として豊田杯出場決定。
     
10月、獨逸で暮らす次女が突然メディアの前に姿を現す。(細身なのはパパ似か・・)
     12月、豊田杯で来日。シドニーは初戦でサプリサ(コスタリカ)に敗れるが、
     最下位決定戦で勝利。
     この大会、応援が欲しくて日本人選手を期限付きで獲得したが、
     最下位決定戦ではその選手を「名誉の交代」によって讃えようとして失敗、
     交代を取り消すハプニング。

 2006 8月、最後のホームの試合の前に観客席を埋めたシドニーのサポーターの前に現れ、
     横断幕によって感謝の意を示す、というパフォーマンスをして人々を驚かす。
     グランドファイナルを制してAリーグ初代王者に。
     その後2週間の休暇を獨逸と日本で過ごした後、突然契約延長交渉を打ち切り、辞任。
     理由は「クラブ側が約束を守らなかったから」。

 2007 その後、欧州や阿弗利加のクラブやナショナルチームから数件のオファーが。
     でも結局、J2に転落したばかりのアビスパ福岡と契約。
「日本で仕事がしたかった」らしい。
WM出場歴 1974(ボールボーイとして参加。地元が優勝。)
1982(選手として参加。準優勝。) 
1986(また準優勝。。)
1990(遂に優勝。)
代表歴 A代表:73試合、18得点。デビューは1981年10月のvs墺太利戦(2得点)。
ユース代表:8試合
U-21:21試合、18得点(主将を務めました。)
コーチライセンス 獨逸:A級、B級、フスバル・レーラー(S級)
日本:S級

(確かC級も持ってなかったっけかなぁ。講習に参加した感想を聞かれて「・・・コンナニ白髪ガ増エタ」とぼやいていた記憶が・・・。)
憧れていた
サッカー選手
ヨハン・クライフ
ケビン・キーガン
アラン・シモンセン
靴のサイズ 26p(案外でかい)
家族 妻(ひとみさん。賢くて「喧嘩ヲスルト強イ」女性だそうです)、長男、次男 
子供 デニーゼちゃん(♀1982年)、ミシェールちゃん(♀1987年)、
ジョエルくん(♂1997年)、ルシエンくん(♂2003年)
(ご子息ご令嬢の名前の大半が「お仏蘭西」な雰囲気だと思ったのは、俺だけだろうか・・・)
学歴 レアールギムナジウム中退。(18歳でプロになったため)
↑ラテン語・ギリシャ語よりも近代言語や自然科学に重きを置く教育をする進学校。
好きだった教科 体育、理科(生物学)
職歴 税務官(訓練生)
趣味 ぱそこん、テニス(←嘘くさ^^;)
口癖 シャイセ!

《好きなもの》

食べ物 クレープ。その他地元の新聞記事等によると寿司は鰻が好きらしい。パフェも好きらしい。
飲み物 コーラ
映画 『インディー・ジョーンズ』
俳優 ロバート・デ・ニーロ
ブランド ヒューゴ・ボス (男らしい趣味です^^)
アーティスト Queen 他

《処分歴》
・・・独逸のヒステリックな監督たちに比べたら、まだかわいいもんです。
フロントの皆さん、選手の皆さん、サポーターの皆さん、これくらいのことは覚悟しておきましょう(違)。

シーズン 罪状
04(J2) 3月、下とまったく同じ(爆)。
03 (J2) 6月、給水ボトルをピッチに蹴り入れて退席処分。
02/03 (2Liga) 9月、コーチングエリアを飛び出して退席&罰金2000ユーロ。
01/02 (2Liga) 3月、審判団を罵り倒して罰金2500ユーロ。
00/01 (1Liga) 3月、主審を野次り倒した上に食ってかかっていって退席処分。
99 (JFL) 審判とバトル、退席処分。(詳しいことは忘れました。確か、天皇杯出場が決まる試合に出られなかったんだよね?)




リティ君の秘密に関する小ネタ頁。(僅か3件)
作者のプロフィールもどきはこちら



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