第五章:ケトアシドーシス発症

2007年11月8日



11月8日木曜日、朝からみぬはベッドの下に潜っていた。昨晩は全く食事を口にしなかったので心配していたが、この日の朝も全く何も食べなかった。私がリビングで朝食を摂っている間、みぬは弱弱しく歩いてベッドルームから出てきたが、またすぐにベッドルームに戻ってしまった。
心配ではあったが、数日前も元気がなくて緊急病院に連れて行ったところ、結局何事もなく回復したので、今回もただ病院通いで疲れただけだろうと思い、いつも通り出社した。

昼休みに家に戻ってみると、みぬが水の器のところで蹲っていた。何度も鼻を水面に近づけるが、何故か飲めないようだった。目には力がなく、荒く呼吸をしていた。猫用トイレを覗いてみると、ねっとりとした黄色い液体がトイレの隅にあった。尿にしては様子が変だ…と思い、よく見てみると、吐物だった。キャットホスピタルに電話をしなければと思ったが、生憎キャットホスピタルはお昼休み中だったし、私も仕事があったので会社に戻り、キャットホスピタルが開くのを待って電話をかけた。

午後の4時ごろになってやっとM先生と連絡が取れ、仕事途中だったが、切り上げてすぐにみぬを連れて行くことになった。
家に戻ると、リビングのラグマットの上に新たな吐物を見つけた。しかし、ラグを掃除している暇などなかった。私はみぬをキャリーケースに入れ、キャットホスピタルに向かった。みぬには最早抵抗する気力もなかった。みぬを受付嬢に引渡し、待合室で先生の診察が終わるのを待った。この日は習い事の日だったが、当然それどころではなかったので、講師に携帯から電話をかけた。
「うちの猫がかなり悪い状態なんです。今病院にいます。」
「じゃあ、レッスン明日にする?」
「今のところ何とも言えません。とにかく緊急を要する状態です。あとでまた電話します。」

M先生がが待合室で待っていた私のところに来て、みぬの状態及び治療オプションを説明した。
「とにかくひどく脱水しているので、まず輸液が必要です。で、治療の方ですが、まず吐き気止めのみを与えて様子を見るという選択があります。他、何か他に悪いところがないか見るためX線検査を行うという選択もありますが、費用がかかります。どうしますか?」
「出来る検査は何でもやってください」
私は猫の保険に入っていたので、多少の出費は問題なかった。

時計は6時を回り、待合室も静かになっていった。一緒に待合室にいた恰幅のいい男性が、「さっきからずっと待ってますね。僕もなんですよ」と話しかけてきた。
「猫ちゃん、どこか悪いの?」
「糖尿病なんです」
「ああ、僕自身も糖尿病だ。あれは大変だよ」
「そうですね…。」
私にはそれ以上会話をする気力はなかったが、初対面の人にやたら悲しい顔を見せるのも…と思い、ただ素っ気なく振舞った。
その数分後、アシスタントの女性が彼の猫を連れて出てきたので、彼は「お大事に」と言って待合室を出て行った。

やっと診察室に呼ばれ、M先生はX線写真を私に見せてくれた。
「これが胃です。何も食べていないので空っぽですね。ここに見えるのが肝臓、これが腎臓。特に問題ないです。ただ、これが大腸。ひどい便秘ですね。」
腸の中身がX線に関してはド素人の私にもはっきりわかった。
「そういえば、排便してないな、と思ってました。うちにはもう一匹猫がいて、トイレも二つ置いているけど、みぬは片方しか使わなくて、そっちの方には排便の形跡がなかったんです。」
「流石薬剤師さんですね。よく観察してくれるので私も助かります。今夜はどうしますか?病院はもう閉まってしまうけど、夜中には院長先生が回診に来ますけど。」
「家につれて帰って何かあったら困りますので、よろしくお願いします。」
「明日の朝までに排便がなければ、浣腸をしてみます。8時以降、いつでも電話してください。帰る前にみぬちゃんに会っていきますか?」

私は奥の部屋に案内された。健康だけど飼い主が不在のために預けられている猫、検査入院中の猫、色々な猫が個別にケージに入れられていたが、中でもとりわけみぬは体調が悪そうだった。相変わらず水を飲もうとしても飲めない様子で、時折水の器を前足で引き寄せようとしながらも、鼻を水面に近づけるだけだった。 私はM先生に言った。
「そう、家でもこういう感じで、水が飲めなかったんです。」
「吐き気がひどいんですね。ファモチジンが効きはじめればお水も飲めるようになるかもしれないけど」
M先生がケージを開けてくれたので、私はみぬの背中を撫でながら「明日来るからね。」と声をかけた。
何とかして体の中に水を取り入れたい、でも吐き気がして口からは飲めない…そんなみぬを見ていると、辛くなって涙が出てきた。傍で見ていた看護師*やアシスタントの、「ママは本当にみぬちゃんが大好きなのね」という言葉が、益々切なかった。

翌日、会社からキャットホスピタルに電話をかけた。M先生が電話に出た。
「朝から浣腸が行われ、4粒排便しました。しばらく様子を見て、何も起こらないようならもう一度トライします。」
私は仕事はさておき、ネットで猫の便秘や糖尿病の関連性について調べた。糖尿病とはあまり関係なさそうだったが、猫にとって便秘はかなり怖い状態で、トイレで力んだ挙句嘔吐してしまう例もあることを知った。
「ということは、昨日の嘔吐は便秘が原因?じゃあ、便が出ればよくなるってこと?」と考えると、多少安心した。

夕方、みぬの便秘の状況確認のために会社からキャットホスピタルに電話をかけた。電話に出たM先生の声の調子から、何か悪いことがあったのを察知した。
「尿検査をしたところ、ケトンが検出されてしまいました。この状態になってしまったら、30%の猫は助かりません。
ケトアシドーシスって…ここ数日、血糖値は低かったはずじゃなかったのか?なのにどうして…?私は仕事を切り上げてキャットホスピタルに向かった。少なくともみぬがその助からない30%に入らないことを祈りながら…。

キャットホスピタルに着くと、M先生が待合室まで出てきた。料金は高くつくが、緊急病院にみぬを連れて行くことを勧めてきたので、私は、
「保険に入っているので、お金のことは心配していません。」
と答えた。
「わかりました。でしたら、必要書類を揃えて準備しますので、お待ちください」

しばらくすると、キャリーケースに入れられたみぬが出てきた。前足にはカテーテルを取り付けた箇所に赤い包帯が巻いてあった。病院のスタッフは、「Good Luck」と言ってみぬと私を送り出してくれた。


* 2008年12月に訂正。1999年よりアメリカに住んでいるので、日本で看護婦若しくは看護士という言葉が用いられなくなったことを存じ上げませんでした。





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