久留米学園の思い出

        久留米同窓会2004年〜2007年開催時にいただいて遠藤先生が入力されたものの中から、在園・在職順に載せました。   最終更新13/12/28

 

2005・「36°2分、2ぜん、2杯、おいしかったです。」廊下の雑巾がけ、洗面場の歯みがき粉のにおい、食堂の前の桜、昼の牛乳とおやつ、裏山で

の戦争ごっこ、ボール紙の模型飛行機づくり、講堂での卒業式、「仰げば尊し、我が師の恩」ピアノに合わせて泣いて唱った全員の合唱。戦後初めての

同窓会、等々、走馬燈のように思い出すこの頃です。あれから66年、良くも個々まで元気で生きてきました。武蔵野の香りがとても懐かしい。久留米

よ、いつまでも栄あれ!!                                   (草野勝視 S14年1年間在籍  桐)

2005・記憶違いもあるかも知りませんが@男子寮生が二手に別れ戦争ごっこA食堂、ステージで決死の伝令の芝居B夜、寮で小豆を箸で一分間でいくつ

か、先生が腕時計でC木村先生が退園の時、大泣きして後を追ったD天野先生に連れられ裏から野火止用水ミニ遠足E時の厚生大臣が見え一緒に寄った

等々うろ覚えです。                             (坪内 芳夫 S14年、15年1学期ずつ 小5〜小6在籍)
 

2005・昔の11月は今より寒かった。晴れた日の早朝はなおのこと、子どもながらに手足を温めた。広い芝生の上にも朝露が降り、近道した足跡が露

を落とし伸びていた。11月3日の「文化の日」は、昔は「明治節」と呼んで、やはり祝日だった。子ども達は寮から外へ思い思いに体を動かしてい

た。デッドボール、鉄棒、縄とび、鬼ごっこ、そして裏山に落ち葉を踏みながらドングリ拾いなどしていた思い出が残る。休みの日には母と妹の訪問も

あり、ことのほか待ち遠しく嬉しかった。しかし、帰る時は悲しく寂しく、そっと目頭を押さえた。食事は何と云っても唯一の楽しみ。食堂の前に来る

と、良い匂いが食欲を注る。それに軽快な音楽が心地よかった。寮の先生が傍に付いて、ご飯のおかわりや、噛む数を20回→30回→50回と、優し

き新設に指導して頂いた。お陰で今の健康があると思う。本当に有難いことと感謝し実行している。        (小澤秀雄 S15〜 2期在籍 桃)

2005・私は昭和15年4月(1940年)4月(第1期)から昭和16年3月(1941年)まで、まるまる1年間、久留米学園にお世話になりました。

桃の寮で寮母先生は豊田邦先生でした。思い出は沢山、山ほどあるのですがその中でも一つといわれると、就寝前のひと時、マイク(?)を通して名作文

学をほどほどに読んでくださったことです。当時の名作を次から次へと毎晩読んでくださったことから、読書、本、漢字を読む習慣が現在まで続いており

ます。有り難いことと感謝いたしております。                                                              (田中 康吉 S15〜16年)
2005・昭和16年12月8日を学園で迎えました。桐の寮のなかまたちも私と同じように70才以上の老いと毎日過ごしていることと思う。寮の鈴木文子

先生。担任の神藤鉄雄先生。詩吟の奥田先生などなど、やさしくて厳しくて、そして楽しい先生方だった。自然が豊かだった学園は今でも忘れられない。

ちょっと怖かった裏山。オタマジャクシでいっぱいだった門のそばの池。初めて聞いたモズの声。玄関の両脇の金と銀の木犀の香り。日光浴で親しんだ芝

生の広場。正門から玄関までのダラダラした坂。鬱蒼とした木々に包まれた寮や食堂。そして、浴場や床屋の棟。食事の前に流れた「三匹のこぶた」のメ

ロディーは特に忘れられない。あの肉ジャガの味は格別だった。(N・Y)
 
2007太平洋戦争の開戦放送を本館の玄関前で聞いたことが、すごく印象に残っています。その後、学園生活は急に変わったこともなく、いつものように

検温から始まり検温で終わる毎日でした。その後の学園の移り変わりの激しく変動した様子を知るにつれ、あの時の学園が学園らしい学園だったのだつく

づく想います。教室や太陽灯室があった本館、食堂棟、入浴棟、桐、菊、楓・・・など一つ一つの寮、広々とした芝生、オタマジャクシがいっぱいの池、

正門からの坂道。それと何といっても武蔵野の雑木林の裏山など今でもはっきりと目に浮かぶ。鈴木文子を真ん中に桐の寮の皆んなと芝生で撮った写真は

私の宝として大事にしています。
                                       (中島譲 S16 1年間 桐)  
2004・おひるねの時にスピーカーから流れた音楽、特に「子供の情景」 柔らかい音量でとても気持ちが良く、今クラシック音楽会に行く原点になったと

思います。また、「くもの糸」のお話が日々スピーカーから流れ、いつの間にか心の中まで入ってきて、相手を思いやる気持ちが育ったと思います。以

上、とても良い思い出です。                                   (山田
喜美子(旧姓斎藤) 昭和15年〜16年 )  

2005・前年・前々年にいろいろ書きましたので。@とても楽しく、素晴らしい情操教育を受けたと思っています。(クラッシックレコードを流してくださ

いました)A肺活量を増やすために詩吟を習いました。おかげさまで今また詩を吟じています。Bお正月に百人一首を源平に別れて取るゲームをしまし

た。今も百人一首を沢山おぼえています。
                                       (山田 喜美子 旧姓:斎藤 S16年2月期〜17年3月期)

2004自宅で朝食をとっているとき、時々学園の朝食のことを思い出します。献立はごはんとみそ汁とたくあんのお新香だけが多かったと思います。当

時、食べ盛りだったわたしは、何の悪びれもなく、他の人からお新香をもらったことがあります。現在のわたしの朝食の献立と比べて、差のあることに驚

きます。また、思い出といえば、学園の正門を挟んで流れていた川でとった生き物のことです。当時、水が澄んでいたその川にひとりで入って(川に入る

ことは禁じられていたようでしたが)、生き物が泳いでいるのを見つけ、胸がワクワクしました。その生き物を捕るのに道具がないので、素手で捕りまし

たがたいへんうれしかったです。これまで経験がなかったので。生き物はサンショウウオのようでした。     (福島純義 1950〜51年)
 
2005・久留米学園の思い出は、在園経験のある人にとってはそれぞれ尽きない思い出があることと思います。退園後、健康に恵まれそれぞれの分野で頑

張っていたり、活躍されていることはすばらしいことです。

 しかしこのことだけに焦点を合わせるだけでは、全体を語ることにはなりません。不幸にして

退園してから早く亡くなられた方、また在園中に亡くなられた方もいるのです。昭和27年冬だったと思います。桃の寮の水戸部くん(小3)が最下級の

寮の並びにあった特別静養室で亡くなった出来事は、私にとって忘れ得ない出来事として心に残っています。あの時、学園全体が緊張感に包まれていまし

た。リンゴの掏り汁が飲みたいと寮母先生から伝え聞いたことが、今でも頭から離れずに残っています。桃の岩本先生も在職中、病院で亡くなられたとそ

の後聞きました。私達は明と暗があることを忘れてはならないと思います。岩本先生とは高橋房子先生(旧大田)の退職記念として、寮母先生が扮したリ

ヤ王の劇でコーデリヤの妹役をやった記憶があるのです。(因みにリヤ王は松の金田先生でした。)昭和25年、静養寮で生活をともにした発地抄子さ

ん、守屋恵子さん、漢人和郎君、昭和26年梅時代の三村静夫君も退園後、早く亡くなった仲間です。懐かしい顔が浮かんできます。同時にお世話になっ

た塚田先生、奥田先生、布川先生、その他の方々の顔が浮かんできます。今も元気でいる私達は学園に感謝しつつ生きていきたいと思います。

                                      
                             
(菅野 広直 S24、25年〜27年 小5〜中1在籍 S25静 S26梅)
 
 2004私の人生と久留米学園は空気の如く大切でいつもいつも何処かに宝物の様に残っております。人生ってどうなるのか実に不思議なものでして、私の

ように落語家になる人もいれば、平均的サラリーマンになる方もいらっしゃる。でも私にとって久留米学園は第二のふる里、第二の兄弟(姉妹)です。

「兎追いし
かの山 小鮒釣りし かの川」の文句がピッタリだった当時の久留米学園、今も心に残ります。 (鈴木義男:笑福亭猿笑 昭和25年 桜)


2005
・心の中の久留米学園  私にとって久留米学園の思い出は終生のものです。いかに長寿の時代と申しても65才は矢張り年寄りの部類の筈。でも久

留米学園の想い出だけはいくつになっても、いつの時代にも走馬燈の如く新鮮でなつかしくもあり、腕白な一人の少年「義男くん」でしかなく、周囲のお

兄さんやお姉さん達、後輩もずっ〜とそのままの残像が流れています。先生も職員の方々もそのままの姿であり、自然も山があってきれいな川が流れトン

ボも蝶も紅葉もギンナンもみんなみんな昔のままです。久留米学園は私にとって終生の友なのです。    (鈴木義男:笑福亭猿笑 S25年)
 

2005・今は亡き両親の事が思い出されます。体調の思わしくなかった母に代わり、忙しい中、父が毎月1回何かしら母から手渡された品を持って面会に来

てくれました。今でも忘れられないのが、心温まる手作りの針箱でした。細かい事が憶却になった現在ですが、子供の頃からお裁縫が大好きでしたので、

母に“ありがとう”と感謝の思いで一杯でした。私事で申し訳ありません。        (森田ミドリ 旧姓:鈴木 S26〜27年 桜)

2005私はS26.9月末より〜28.3月末までお世話になりました。小林先生によって絵画への感心を、洗先生を通してクラッシック音楽の楽しみ方

を教わりました。寮母先生は人間愛を、友からは真の友情が育まれました。人間は一人では生きられないことを学びました。人生の方向性が求められたの

が、この一年半の学園生活であったと思わされています。今、私は「心の病」を負う人達のための共同作業所コイノニアを運営しています。皆様のご支援

を期待しております。
                                           (佐原 眞 S26〜28年)  
2005・小笠原さんが何で小笠原になんか行くの?って言われて、間もなく40年になります。年に1〜2度は内地に行きますけど、畑仕事にもすっかり慣

れ、島の人間になりました。冬はほとんどないですね。1年中半袖です。舞台があると必ず唄います。今では母島の歌姫と言われています。

                                              (S2628 竹の寮 竹原恵美子 旧姓:小笠原)
 
2005久留米学園に入園中(小5)は家族から離れて初めての寮生活でしたので、最初はとまどいとホームシックにかかる頃の事、学校の友達全員が手紙

を送ってくれた時は、嬉しくて何度も読み直しました。内容は大半が楽しく遊んだ思い出と早く体を治して戻って来てくださいとの励ましの手紙が多く、

学園生活はどのような過ごし方をしているのか返事をくださいとの事。しばらくいろいろ考えて返事をして、学園生活での休養と学校・食事の時間等規則

正しい生活をしている事を書いたように思います。中でも昼食はうどんが多く、残す人もいて全員が食事を終わらないと退場できなかったので、嫌々食べ

た人もいました。しかし慣れるに従い、寮生活(将棋・百人一首の競い合い)、校庭や田んぼで遊んだ事、裏山で虫取りをした事の思い出は今も懐かしい

思い出の一つです。また、面会の日があり、両親・家族との面談の時は一日中楽しく(待つ楽しみ・面会時の話)、別れる時の何とも言えない寂しさ、ま

た会う日迄の思いは子供心に残るものでした。思い返せば53〜54年前の事ですが、楽しい思い出が多かった(いっぱい)。遊んだ仲間・友達と昔話も

してみたい心境です。梅寮桜井先生、広一郎兄さん、菅野兄さん等大変お世話になった思いであり!!

                                       (平田次郎 1951〜52年 小5〜小6の1年間在籍 梅)
 
2004・私の60余年の人生の中で10の忘れられない体験の一つに久留米学園での1年間の生活があります。小学3年生で初めて親元を離れ、規則正しい

生活で、それには第一にセルフ・コントロールが必要でした。自分でもよく耐えられたと感心していました。しかし1年後、親元に戻ると、ゼンマイがす

べて戻った感じでした。それでも、私としては随分精神的に成長した機会となり、今でもお世話になった方々に感謝しています。子供ながらに健康に留意

して生活したので、今でも羽目をはずしての行動はできません。(元来の性格かもネ?)
                           (古田和子 旧姓:梅木 昭和27年度 桜)
2005いつも有りがとうございます。60才を過ぎますと、思い出もうすらぐものですが、学園の思い出だけはしっかりと刻まれております。桜の寮で井

上先生は消灯後、毎晩、童謡のレコードを聞かせてくださいました。静養寮では穂阪先生が世界少年少女文学を読んでくださり、暗い部屋の中で耳をそば

だてて物語の進行に心底ワクワクしたものです。又、学校の先生で小林・新井両先生(男性で小柄な新井先生と、背が高い小林先生)が、毎晩ではありま

せんでしたがクラシック音楽を放送で流してくださいました。4年の時は洗井先生(女性)が、夜、広場で「冬の星座」オリオンやスバル、双子座などを

実際に観察させてくださいました。5年生の時は、比嘉先生の博識ぶりの授業はすばらしいものでした。塚田園長先生のハンサムで愛情に満ちたお顔に子

供心にも信頼を寄せ、深く尊敬しておりました。                  (村田照子 旧姓:藤野 S28〜30年 桜、静養寮)
 
2005・私の母は私が小学校3年生(母50才)の時に脳出血で倒れてお手伝いのおばあさんが我が家に来ましたが、そのおばあさんは老人結核で私は胸に

結核菌が入り、4年生〜5年生にかけて肺炎、肋膜肋骨カリエスと次々とかかり病院から退院して(このまま近所の小学校に行くのは無理)と保健の先生

に言われて、5年生〜6年生の2学期迄久留米学園に入園しました。5人兄弟の末子で育った私は甘ったれで、桜の寮の井上先生(現、田中先生)には

(お兄さんからいじめられた)と言っては泣いて訴え、先生を随分困らせました。6年生になって松の寮に移り3年生、4年生の男子の面倒を見る立場に

なり、健康も快復してきて明るさと自信を持って授業も楽しくなりまして、6年生の2学期に東京の小学校に帰って来ました。子供の時に親から離れて我

慢する事を教えて頂いた事は、私のその後の生活にプラスになり、長男の所に嫁いで35年両親と共に生活して、今、親は他界しましたが学園の生活があ

ったからやってこられたと心から感謝しています。ありがとうございました。       (有田芙美枝 旧姓:奥村 S30〜31年 桜、松)
 
2005・私は昭和40年5月に小学3年生でぜんそくのため久留米に入舎しました。3年生が最小学年なのでまわりは年上の人ばかりで、特に私の場合、同

級生がいなくてお兄さん、お姉さんに囲まれた生活でした。学校の授業も先生とマンツーマン、教室の広いこと!でも、その後女の子が二人前後して入舎

してきました。この二人とはいまだに連絡を取り合って、年に1〜2回は会っています。三人目に入舎してきたのは男の子で、実は主人なのです。という

訳で、久留米では親友と伴侶に出会えました。そして、田舎のない私にとって久留米の自然は新鮮で草木や虫、霜柱、泥沼等々、毎日遊びを満喫していま

した。                                          (早津 京子 旧姓:中村 S40〜42年)

2005・私が久留米の学校に入舎したのは、忘れもしないS42年の1月の終わりでした。寒い中、意を決して家を出ていったのを覚えています。入舎した

頃の学校の様子は、木造の校舎が今の久留米西高校のあるあたりの北側の丘の上にあり、同じく木造の寄宿舎が今の校庭になっているあたりに、何棟か分

散していました。一組分の寄宿舎は寝起きするところ(寮)と勉強する所(自習室)とに建物が分かれていました。寮の生活スタイルは和式になってい

て、押し入れからフトンを朝夕出し入れして生活していました。自習室の方では和机で、少々暗い照明で勉強していました。そして、学校と寮の間の地蔵

の所から南へ下りたところの東側が広く平らになっていて、個々に大きな木造の食堂がありました。そして更に、この食堂と校舎の間に「杉の寮」という

建物があり、ここは他の寮とは違って様式のベッドと机の生活スタイルになっていました。この場所は食堂と学校が一番近くにあるので、体の具合が悪

く、病状の重い人の専用の寮でした。その上、当時は風呂場が無く、歩いて15分ぐらいの所にある銭湯へ週に2回、火曜と金曜日に皆で行列して通いま

した。おして建物があちこちに分散しているために、雨が降るといちいちカサをさして移動しなければなりませんでした。でも、このころになると新築中

の鉄筋コンクリートの2階建ての旧本館寄宿舎がだいぶ出来上がってきて、通学路から見たり、食堂の縁側から見るのが楽しみでした。そうこうしている

うちに、生活にも慣れて、S42年の7月の初めごろに、新築なった旧本館に全員で引っ越しをしました。私は2階の部屋になり、日々の生活に階段の上

り下りが加わりましたが、なにせ便利で、学校以外へは雨が降ってもカサが必要ないので本当に楽になりました。この後、今まで寮があった場所はすぐに

整地されてから、鉄筋コンクリート2階建て(北校舎と南校舎)旧校舎の新築工事が始まりました。そしてS43年の6月の半ばごろに新築なった旧校舎

に全員で引っ越ししました。旧校舎はすぐに壊され整地されましたが、旧食堂はそのまま数年間手がつけられず、夜中に旧本館の廊下の窓から見上げると

不気味でした。私が中1になったS45年の6月ごろに新築なった別館寄宿舎に本館から中2・3年を主体とするメンバーが移動しました。実はこのS

45年度から中学部が中3までになったので、旧南校舎の東に中3の教室が増築され、それに伴って寄宿舎の規模も拡大されたのでした。この後、同年9

月ごろには、プレハブ作りの青い屋根の体育館も新築なって、授業その他でで使えるようになりました。私の場合、こうした変化を順を追ってみてこられ

たのも何かのめぐりあわせだと思っています。
           ( 野口 孝  S42〜48年 小4〜中3在籍 梅の寮・C・桐・松 )  

 
2005私の赴任したのは昭和23年の秋ですが、あの時代は私達寮母は24時間勤務で外出は月に一度のお休みで、大変に楽しみで家に帰り父母に学園の

様子を語っているうちに、すぐ夕方でソワソワと帰寮したものですが、子供達に買い物など頼まれている時「タダイマー」と帰ると一同が廊下に飛び出し

て大声で「お帰りなさーい」と大さわぎで喜ぶ純真な姿を見ると、涙が出そうな嬉しさと子供達のいじらしさにしみじみと寮情が湧くのを覚えたもので

す。あの頃の事を思うと今でもジーンと致します。今は木村先生と(旧)横田先生と3人組で仲良くしています。


                                           
(桜井比都美 寮職員 橘→竹→梅 S.23.1033.8
2005・昭和34年4月、学園から学校に変わる時、塚田貞雄延長の補佐として開設に携わりました。しかし34年10月、残念なことに塚田先生が急逝さ

れ、お役に立てなかったことを悔いております。現:社会福祉法人「松葉の園」理事長兼園長      (学校職員 小松昭雄S34〜35年 )
 
2005・歴史のある久留米に、時代、社会状況が異なっても、自分の人生の一部分が根付いていること事々の思いが素晴らしいと思います。お目もじを楽し

みに年一回、七夕様のごとく?でもその後の輪の広がりを期待している私です。平常、不在がちの私ですがお近くにおいでの説はどうぞお時間がありまし

たら、そして私に動ける体力があるときはマイ・ベンツでと思いますのでご連絡下さーい。お目もじして一刻を、久留米の今昔物語に口角泡をとばそうで

はありませんか。何時までもお元気で!!ごきげんよう。                             (小泉 信子 寮職員)

   


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